2008/06/30.118                                                                                                                 

                                                                                                           江ノ島

                  浜の軟派師その三

私はむっくり起き上がった。そろそろ言わなければならないだろうと思ったからだ。ここ鎌倉の海辺はトンビやカラスが異常に多い。浜に遊びに来る人の弁当を狙って、周辺の山から集まって来るのだ。先ほどから、数羽のトンビが標的を定めて、私の頭上を音も無く旋回している。
彼等の標的は、私から十メートル程先にある太い流木に座っている若い女性が手にするハンバーガー。
彼女の横には、コーラの入った大きな紙コップが不安定に置かれているので、騒動に巻き込まれる確率は相当に高い。だが、私が言わなければならないと思った時機が一瞬遅かった。
「キャ〜！」女性の悲鳴で私の使命感が打ち砕かれた。
「あ〜あ！やられてしまったか」済んでしまった事だから、もはや急ぐ事はないと思いながら。やおら立ち上がり声を掛けた。

「やられましたね。全部取られちゃいました？」
「ええ、もうびっくりですよ。私のお昼ご飯だったのに、どうしよう！」
彼女はまだ興奮が醒めやらない様子である。
「いたずらなんですよ。ここのトンビは」私が言うと、
「見て下さい。ほら、サラダの葉っぱが一枚だけ残りました」彼女が目の前の砂浜を指差した。無惨にも砂にまみれたレタスの葉が痛々しい。

「私も以前二度ほどやられているんですよ。ここのトンビに」私がその時の様子を彼女に聞かせると、
「そうなんですか。油断出来ないですね。でも、ホントに悔しいわ」
お弁当を取られて、なお諦め切れない彼女の顔に笑みがこぼれた。
「可哀想に、お腹が空いているでしょうに」私が同情すると、
「そうなんですよ。こんな経験初めてです。信じられません！」
彼女は恨めしそうに空に舞うトンビを見上げた。

「この浜に来たら、注意しなければいけない事が二つあるんですよ」
「えっ！何ですか？注意する事って？」途端に彼女の大きな目が輝き出した。
「トンビと軟派師」突拍子もない私の言葉に、彼女の目がますます大きくなった。
「何ですか？軟派師って？」
「そう、この浜でナンパして歩いている小父さんがいるんですよ。若い女性が散歩していると、誰彼構わず声を掛けるんですよ。僕ら仲間内では、彼を浜の軟派師と呼んでいるんですよ」
「へ〜！浜の軟派師ですか。あはは！　そんな小父さんがいるんですか・・・」
「そう、六〇才前後で、潮焼けした顔の小太りの小父さんでね。地元の人らしく、何時もビーチ・サンダル履いて若い女性をハントしているんですよ。声を掛けられた女性の大半が彼について行くようですよ。余程会話が上手いとみえ、直ぐに仲良くなってしまうんですよ」

「へ〜！私はもっと若い人だと思ったのですが、そんなお年の小父さんなんですか」
彼女はトンビに弁当をさらわれた事などすっかり忘れ、私の話に興味津々と言う顔をした。　
「地元の親切な小父さんを気取って、女の子に近づいて仲良くなってしまうらしいですよ。女性を安心させるテクニックを持っているんでしょうかね？」私にもその辺のところは分らない。
「地元の小父さんって事で、安心してしまうのではないですか、きっと」
「それにしても、最初は何と言って近づくのかな？モシモシじゃ可笑しいし。教えて貰いたいもんだなあ」
私は本気でそんな事を考えた。

「明日からゴールデンウィークに入るので、軟派師の小父さんにとっては書き入れ時ですね。あはは！」彼女は屈託なく笑った。
「書き入れ時か、羨ましいな」
「でも、その軟派師って、どんな人か見てみたいわ」と、その時である。
偶然、話題の軟派師が現れたのである。
「あっ！あの人ですよ！」私が波打ち際に立っている黒い影を指指した。
太陽を背にしているので、はっきり見えないけれど、背格好から紛れも無く浜の軟派師に間違いない。

「えっ！あの人ですか？」
こぼれずに済んだコーラのコップを口から離すと、彼女が素っ頓狂な声を出した。
「そう、あの人ですよ。ほら！キョロキョロしてるでしょ？」
「ホントだわ。キョロキョロしてますよね」
「一人で遊びに来る若い女性を物色しているんですよ。ほら、ほら！あの小父さん、海なんか見てないでしょ？ほら！こっちを見てますよ。僕がいなかったら、間違いなく貴方は誘われてますよ」
「嫌だわ！脅かさないで下さいよ。でも、あの人普通の小父さんですよね。特に格好いい訳じゃないから、かえって安心しちゃうのかしら？」

「さ〜ね、私にも分りません。きっと話が上手く、あたりが良いのだと思いますよ」
これは私の想像である。私が彼と出会う時は、大抵若い女性を連れているので、かなりの成功率である。
「あら！周囲にゲット出来そうな女性がいないから帰って行きますよ」
彼女の言う通り、軟派師は海岸道路に出る階段を上がると姿を消した。
「一度、道路に出てから、次はあちらの浜でナンパするんですよ。なにしろ、このあたり一帯は彼の庭みたいなものだから」

「あの小父さん、ナンパする事が趣味なのかしら？あはは！」
「元気がいいのかな？あの年で若い女性しか相手にしないんだから。貴方も気をつけて下さいよ」
羨望が入り混じった言葉に、説得力がないのは百も承知である。
「大丈夫ですよ。私なんかに声掛けませんよ」彼女は笑いながら、顔の前で片手を振った。
「兎に角、この浜に来たら、トンビと軟派師には、くれぐれも気を付けて下さい」
「分りました。気をつけます！」

トンビには、お弁当を取られないように気を付ければ良いとして、浜の軟派師に心を奪われないようにするには、自らの教養を高めるしか方法がない。ナンパされない程度の教養なら、誰でも持ち合わせていると思うのだが、あの小父さんに簡単にナンパされてしまうところをみると、自らナンパされたいと思う女性が案外多いのかも知れない。
今時の若い女性にとって、私の言う教養など化石にも等しいと思っているかも知れないのだ。

そうだとしたら、トンビのお陰で折角知り合った女性に、誘いのひと言も掛けずに帰してしまった私の方こそ、無粋で非常識な人間と言うことになるのだろうか？
そう思うと、年にもめげず、時代を先取りした浜の軟派師は、人生の達人と思えてくるから不思議である。
次回、同じような機会に恵まれたら、化石のような教養をかなぐり捨てて、私も浜の軟派師になって、
人生の達人を標榜する人間になってみたいものだ。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　         
                                                                                                                  （完）
脱稿日： 1999/05/04.026
                 
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