2005/04/10.002       マンボウの作文                                             八重桜                                                                                                                                                                             
                                                何でもいいよ  

「夕飯は何食べたい?」と妻に訊かれると、すかさず「カレーライス」と言いたいところだが、「何でもいいよ」とつい言ってしまう。
「カレーライス!」と声高々と言ったところで、実現しないことは長年の経験から分かっているので、言うだけ損である。仮に声高々と言ったとしよう。
言った瞬間にカレーライスは幻と終わってしまうのが落ちである。
100パーセントの確率でカレーライスはなくなるからである。

妻は人の言葉に即座に反発する癖があり、決して人の言う通りにはならない。
その上話しが一方的で、人の話しなど全く聞かないところから、私は妻のことを我が家のお姫様と言っている。そんな妻に向かって「カレーライス!」など以ての外である。
「カレーライス!」と言いたいところを我慢して、「何でもいいよ」と言う前のちょっとした時間が年々短くなって、今ではほとんど反射的に言ってしまう。
ボクサーがゴングが鳴った瞬間に、打って下さいとばかりに自分から顎を突き出して、自滅する恰好に近い。そんな風だから、今の私は子守役の御家老がお姫様をあやすようなものである。

駄目もとで「カレーライス!」と叫んだとしよう。
「カレーライスは私食べたくないわ」私の好物がカレーライスと承知している妻が、私の期待を打ち砕くように、いきなり先制パンチを放つ。
「だったら、訊かないでくれよ」心の中で思うだけで言葉には出せない無念さ。だから、
「夕飯は何食べたい?」と訊かれても、「何でもいいよ」と答えざるを得ないのである。
トンチンカンな会話を続ける事ほどアホらしい事はない。けれども、
「何でもいいよ」で終わってくれれば、私の精神的な負担が軽く済むと言うものである。
ところがである。「何でもいいよ」で済まない事が多いのだ。
「何でもいいじゃ、こっちが困るのよ」この言葉が出たら要注意で、これから先の会話には充分注意しないと大変な事になる。

確かに「何でもいいよ」じゃ、何だかはぐらかされたようで、妻だっていらいらが募るだろう。
だから、やんわりと、
「そうだね、豚汁なんかどうかね。多めに作れば明日も食べられるからね」私の二番目の好物を恐る恐る言ってみる。「カレーライスが駄目なら、豚汁にしてよ」間違ってもこんなセリフは言ってはならない。
もしも言ってしまったとしたら、即座にこんな言葉が返ってくるに違いない。
「カレーライスは駄目だなんて、誰も言ってないじゃないの! カレーライスは辛くて嫌よ。それにカレーは脂肪分が多いからコレステロールが溜まっちゃうわよ。それでもいいの?」
「おい、おい! なんか話しがおかしいよ。甘いカレーなんかないだろ? それに、コレステロールが溜まるって言うけど、善玉のコレステロールだってあるんだし、そんなに心配することもないと思うけどなあ」

このセリフも思うだけで、決して口には出さない。妻とのディベートに勝つ見込みが全くないからである。
とどのつまり、「何でもいいよ」と言って、じっと妻の反応を待ち、臨機応変その場を凌ぐ事しか出来ないのである。妻の機嫌が良い時であれば(ほとんど期待出来ないけれど)たまには,
「冷蔵庫に鶏肉があるから、自分でカレーライスでも作る? ジャガイモとタマネギも昨日買ったばかりだから沢山あるわよ」と相成る。自分で作ると言う条件付きではあっても、
「オッケー、作る、作る!」と言う訳で、私が作れる料理のレパートリーはカレーライス、豚汁、そして三番目の好物であるスパゲッティーの三種類だけである。

その上、好きな物を自分で作って食べられる幸せが、偏に妻の機嫌に掛かっているのが気に喰わない。
それならば、「何でもいいよ」と言って妻の反応をじっと待つのではなく、思い切って、
「僕が不味いカレーでも作ろうか?」と言ってみるか。ひょっとして、
「貴方のカレーじゃ辛すぎて駄目よ。私が作るからいいわよ」と言うかも知れない。作戦は相手のプライドをくすぐるに限るけれど、私と同じ年代の人は、人を褒めて,やる気を出させるテクニックは持ち合わせていない。どちらかと言うと、叱咤激励型の人間が多く、そう言う人が相手のプライドをくすぐる事など余程切羽詰まらないと出来ない事である。

妻は主婦としてのプライドが旺盛だから、自分の聖域を侵される事を極端に嫌う。
私を台所に入れたがらないのは、唯一、自分の存在価値を自他共に認める証が欲しいからだと思う。
私が台所にはあまり入りたくないのは当然だけれど、好きな物が食べられないのは困る。
時として妻が姉や妹達と連れ立って二、三泊の小旅行に出掛ける事があるが、そんな時、私は迷わずカレーライスを作る。
妻の作る甘いカレーライスは私の口に合わないし、味だって違う。

私はカレー・ルーは辛口を使い、隠し味として、ケチャップ、醤油、リンゴを入れる。そして、ここがミソなのだが、仕上げの段階で小麦粉と昔ながらのエスビーの黄色いカレー粉を混ぜてフライパンで焦がしたやつを、パラパラッと入れる。
子供の頃、母親が作った懐かしいライスカレーに少しでも近づけるためなのだが、販売競争の激化で今のカレー・ルーは当時のどんなカレーより格段に旨い筈である。
だから、自分の好みや隠し味の事などさっぱり忘れて「今晩何食べたい?」と訊かれたら今まで通り、
「何でもいいよ」と答える事にしようと思う。
妻が泊まりがけの旅行に出掛けてくれる日を、ひたすら待つ楽しみだってあるのだから。        
                                                    
                                                                                                                                 (完)
脱稿日: 2002/01/14.174                                                                                                                     

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