2016/10/25.348

  マンボウの作文

                                            

                       毒素どころか良薬


外出から戻るなり妻が私の目の前に、一枚の白い下着を突き出した。
「ほら見て!、ここにいっぱい出来ちゃったのよ。これも着られないわよ」
「あっ、ホントだ。これはまた酷いな」
「お父さんの汗には、カビの毒素がいっぱい含まれているのよ」
「そうじゃないよ。脱いだ下着を、うっかりそのまま籠の中に入れちゃったからだよ。汗で濡れていたので、黒カビが生えちゃったんだね。気を付けていたのになあ」

「でも、私達の下着には黒カビなんか生えないわよ。お父さんの下着だけよ」
「扱いが悪かっただけだよ。籠に入れないで、風通しの良い場所に置いとけば良かったんだよ。それにしても、これで五枚くらい黒カビにやられたね」
「そうよ。これで五枚目じゃないかしら?このシャツもこの前買ったばかりよ」
「いくらも着てないのになあ?これも捨てるしかないのかな?」
「もう駄目よ。こんなカビだらけの下着は着られないわよ。それでも着ると言うなら着ても良いわよ」
「着るなんて言ってないよ。念の為、もう一度強力カビキラーで処置してみるよ」

妻の嫌味な言い方が始まると、二チャンネルレベルの議論に終始するのが何時ものパターンである。そうなれば、私の敗北は火を見るよりも明らかである。私が黙っていると、
「兎に角、お父さんの汗には毒素があるのよ。だから、脱いだら水に浸けて置かないと駄目よ」
妻が尤もらしい論法で畳み掛けた。
「だけど、黒カビと毒素って、どんな関係があるの?第一、毒素って何なのさ?毎日サイクリングに出るから、僕が一番汗を搔くのは間違いないけど、だからと言って、僕が汚い訳じゃないよ」私がふくれると、
「汚いわよ。だってお父さんのパンツって、時々黄色い時があるのよ」
妻は一刀両断に切り捨てたのだ。

シャツからパンツに飛び火した段階で、私の完敗は確定的になった。飛び火させるほど、妻を窮地に追い込んだのは、私の決定的な失策である。一度飛び火してしまうと、もはや、ロジカルな主張は期待出来ずに、妻の圧勝に終わるからである。
それにしても、黒カビが生える度に捨ててしまうのでは、下着が何枚あっても足りない。
かと言って、その都度水を張ったタライに浸けて、妻の言う毒素とやらを除去するのは、自ら敗北を宣言するようなものである。

世の奥方の中には、旦那の汚れたパンツや靴下を、割り箸で摘まんで洗濯機に投げ込む人がいると聞く。それと比べれば、我が女房が、嫌々ながらも指先で摘まんでいるのは、立派と言えないこともない。彼女の心許ない真心に応えないといけないだろう。
私は、妻から突き返された黒カビの付いた下着を一旦水に浸け、固く絞ると再度原液のままの強力カビキラーに浸けた。時間も以前より長くして、黒カビの変化を観察したのだ。あまり長いと布地を傷めると思ったので、十分位で引き上げたけれど、黒いカビが点々と無数に付いているのは浸ける前と同じである。

「やっぱり駄目か。強力なカビキラーで取れなければ、もう、黒カビを取る方法はないな。残念だけど、この下着も捨てるしかないけど、その前にネットで調べてみよう」
早速、ネットで調べてみると、衣服に発生した黒カビを除去する記述が少ない。
あったとしても、そのほとんどは高価なカビ取り剤を使う方法である。
それ故、クリーニング屋さんに頼んでも、高価な衣類なら兎も角、下着の類いなら、新しく買った方が安く済むので、あまり勧めないそうだ。
「なんだ、結局は捨てる事になるのか?だけど、買ったばかりの下着を捨てるのは勿体ないな。ちょっと、弟にも相談してみるかな?」
次男は自由気儘な自営業なので、暇さえあれば、家の補修や庭木の剪定などをしている。何か妙案があるかも知れない。
「それなら、先日ネットショップで買った住居用の強力カビ取り剤が残っているから、駄目元で使ってみたら?窓枠に生えた黒カビは綺麗に取れたよ。衣類だと傷むかも知れないから、十倍位に薄めて使ってみたらどうかな?それでも取れなかったら、原液で使ってみたら?どうせ、捨てちゃうシャツなんだから。あはは!」

数日後、プラスチックの小さな容器に入ったカビ取り剤が、メール便で送られて来た。
早速、プラスチックの洗面器に少量のカビ取り剤を入れ、水を足して十倍液を作った。カビだらけの下着を一旦水で濡らして固く絞ると、洗面器の中に浸したのだ。
「これで良し。暫く時間を置こう」
十分ほど待ってから恐る恐る見に行くと、あら不思議。シャツの背面に付いていた黒カビが、すっかり消えているではないか。洗面器から出して隅々まで点検したが、カビ一つ見当たらない。

「やった~! 綺麗になったぞ。まるで新品のようだ。生地だって傷んでなさそうだし」
有頂天になって、妻に下着を見せに行った。
「ほら見てご覧!黒カビが綺麗に取れたよ。もう、黒カビなんか付いても怖くないぞ!」
「あら?ホント。取れちゃったわね」
妻はそれ以上何も言わなかった。事あるごとに、私に嫌味を言うことで溜飲を下げている妻にとって、黒カビの消滅は実に残念な事だったに違いない。

「もう、黒カビが付いても大丈夫だよ。弟に仕入れ先を訊いて、うちも一本買っておくよ。カビが生えそうな場所は他にもあるから、あれば便利だよ」
「そうねえ~、だけど、要は、お父さんがカビが付くほど汗を搔かなければいいのよ」
「そんなの無理だよ。夏は誰だって汗を沢山搔くもん」
「綺麗な汗なんじゃない?」
「じゃあ、僕の汗は汚いと言うのかね?」
「汚いなんて言ってないわよ。何か毒素があるんじゃない?黴び易い成分が・・・」
妻は、何ら科学的な根拠を見出せない自分を、不甲斐(ふがい)なく思ったのかニヤニヤと笑った。
「また毒素か。僕をどうしても毒まみれにしたいんだな、やれやれ」

それから二週間後、風呂場で摘まみ洗いをしていた妻が、カナキリ声で私を呼んだ。
「ほら、見て見て!また黒カビが付いたわよ。ほら、お父さんのポロシャツよ」
「どれ、どれ!」見ると、今度は下着ではなく、私が気に入っていた白いポロシャツに、黒胡麻を撒いたように、黒いカビが無数に付いているではないか。
「参ったなあ、生地の厚いポロシャツには、黒カビは付かないと思っていたのに」
「お父さんの毒素は強いから、厚くても付くのよ」
「もう毒素は止めなよ。例の強力カビ取り剤未だ買ってないんだよ。もう夏も終わったので、黒カビは発生しないと思ったんだよ。そしたら暑さがぶり返したからねえ」
「下着と違って、ポロシャツは高いから、簡単に棄てられないわよ」
「そうだねえ。やっぱり、カビ取り剤を買っておくべきだったなあ。ポロシャツ一枚の為に、高価なカビ取り剤を買うのも何だしなあ。どうしよう?」
「お父さんから毒素を抜けば良いのよ。あはは!」

普段、会話の無い夫婦に、黒カビが一役買ってくれる。毒素どころか良薬である。


                            (完)
脱稿日: 2016/10/25.427

                     
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