2015/07/11.324
宇佐美のナイスカップル
雨に降られる事を覚悟して、折り畳み式の小さな傘をリュックに入れ、替えの下着数枚と長袖の綿シャツ一枚、コンパクトデジカメ、電動カミソリ、筆記用具、本一冊、それと各種の書類を入れると、小さなリュックはパンパンになった。
梅雨とは言え、このところの汗ばむような蒸し暑い陽気にも拘わらず、長袖を持参したのは、海抜七〇〇メートルの高原都市特有の夜間の冷え込みを考慮したからである。
富士吉田は、私の第二の古里と言っても良いほど、愛着のある土地である。
独身時代の私は、目黒にある実家に親と一緒に住んでいたので、給料やボーナスのほとんどが、新橋や銀座の小料理屋や、バー、クラブでの飲食代に消えていたのだ。
三十を過ぎた頃、乱れた生活に終止符を打ち、そろそろ結婚資金を貯めようと考えた。
給料のほとんどが飲み代に化けてしまう事を考えれば、結婚は遙かに建設的な思考である。
丁度その頃、温泉地の配管工事を請け負う会社を経営して、羽振りの良かった義兄が、東京の不動産会社が開発した忍野の別荘地を購入したので、私も便乗して貯まりかけた結婚資金を叩いて、猫の額ほどの広さの土地を衝動買いしたのだ。
義兄は、二十年、三十年先には、この土地は別荘地としてではなく、富士吉田郊外の住宅地として発展する筈で、東京で言うと、田園調布のような高級住宅地になるだろうから、買っておいても損はないと自信満々に言った。脳天気な私は、先々土地の価格が上がった時点で売却するか、成り行きによっては、小さなコテージでも建てようかと考えたのだ。
その後、活況を呈した日本経済のバブルが弾け、今になっても土地利用の進展が無いまま、延々四十年以上もの間、固定資産税だけを払い続けると言う悪循環に陥ってしまった。
一旦は上がった土地の価格が下落し続けたので、とうとう手放すことにしたが、言い値で買い手を探すのは難しい状況になり、ほとほと困っていたのである。
私の死後、妻に負の遺産として残すのは迷惑な話だし、二足三文で処分するくらいなら、いっその事、忍野村に無償で返上した方が、さっぱりするだろうと考えていた矢先の事、不動産屋から買い手が見つかったので、当地までご足労願えないかと連絡が入り、急遽、富士吉田に行くことになったのである。
無事に商談が終えると、その日は駅前にあるビジネスホテルに泊まり、次の日、乗客が私しかいないバスで御殿場に出た。御殿場線で沼津に出ると、観光がてらたっぷり時間を掛けて街や漁港を散策したのだ。
その日も駅近くのビジネスホテルに泊まり、翌日、熱海経由で最後の訪問地である伊豆の宇佐美に向かった。
以前、鎌倉の材木座に住んでいたヨット仲間が、高台にある景観が素晴らしいリゾートマンションに引っ越して、かねがね泊まり掛けで遊びに来るように誘われていたからである。
ご夫婦で宇佐美に移って数年経つというのに、今まで私は一回もお邪魔した事がない。
私は余程の事がない限り、滅多には遠出をしない超出不精者なので、度重なる彼からの誘いに応えるまでには至っていなかった。
先が長くない中での身辺整理という余程の事に加え、ちょっとした回り道をすれば、懐かしい友人に会えるまたとないチャンスに、私は漸く重い腰を上げたのだ。
彼との出会いは、今から十七年程前のことである。材木座の浜辺で彼が艤装を解いていた時に、どちらかともなく声を掛けたのだ。それ以来、二人は意気投合し、日常の他愛もない話から人生観まで、あらゆる話題の中で共鳴する事が多く、互いに吸収し合える中になった。
彼は若い頃、狭い日本に嫌気が差し、移民船でアメリカに渡り、その後カナダで十七年暮らしたあと日本に戻り、鎌倉にある大手企業の社員寮の管理人になった。今はカナダ政府から送金される年金や、日本で受け取る年金などで、悠々自適の生活である。
私が彼を尊敬して止まないのは、彼が足るを知る人間だという事である。贅沢とは無縁の人間で、現状に満足しすべての人や物に感謝する心は、並大抵の事ではない。彼が理解する贅沢とは、マンションのベランダから一望出来る素晴らしい海と山の景観、周囲の森から聞こえる様々な野鳥の鳴き声、新鮮な地元の野菜や魚で造る手料理、マンションに付随する豪華な温泉大浴場、これらすべてを、訪れる友人に提供出来るという事なのだ。
私がマンションに着くと、彼は、既にエレベーターがあるロビーで待っていた。
「やあ！久し振り」彼は、昔と少しも変わらない様子で握手を求めた。
何年も会わなかった事が、嘘のようだった。と言うのも、彼とは年がら年中手紙の交換があり、日常の生活の様子は、互いに知り尽くしていたからである。
「姫も待ってるよ」良きにつけ悪しきにつけ、彼も私も女房を姫と言った。
広いワンＬＤＫの間取りは、夫婦二人だけの生活なら、充分過ぎる空間に見えた。ましてや、シンプルライフを信条にする彼にとっては、何一つ障害になるものは無かったに違いない。
私は薦められるままに、彼が毎日数回は入るという大浴場で、ゆっくり温泉に浸かり、汗で汚れた下着を取り替えた。部屋に戻ると三人でベランダに出て、九階から眺める素晴らしい景色を前に、ビールで乾杯した。地元で獲れる新鮮な魚や野菜で造る彼の手料理は、プロ並みの美味しさで、彼が宇佐美を安住の地に選んだ理由のひとつが、食材にあると言っても良い。
昔話に花が咲き、以前、ご夫婦が材木座に住んでいた頃、三人で玄関先のポーチで、海を眺めながら飲んだ時と同じ楽しい雰囲気が醸し出された。その日は泊まるように薦められたけれど、翌日の歯医者の予約時間に間に合いそうもなく、夕方日が沈む頃、車で宇佐美の駅まで送って貰い、大船まで乗り換えのない直通の普通電車で帰路についたのだ。
私が帰宅する事に固執したのは、歯医者の予約は兎も角として、飲み過ぎて、幸せな二人に余計な心配を掛けるような愚痴が飛び出さないかと心配したからだ。
帰宅した翌日、彼から来たファックスを読んで、改めて素晴らしいカップルだと思ったのだ。
彼の手料理は、高価な食材は避けて、食べる人に喜んで貰う事を念頭に選ぶそうだ。
魚は捨てるのは尻尾だけで、頭も中骨も煮付けや味噌汁の出汁に使い、イヌイット（エスキモー）の人達が、すべて神からの恵みと考え、血も皮もすべて使い切る事に倣って、彼も食材の全てを無駄にしないよう心がけていると言う。
更には、こんな文面もあって私を驚かせたのだ。
「我が家の姫もご飯粒一つ捨てる事はしません。白米のご飯も元は一粒からとの思いで大切にしているからです。人も同じで、個性ある人の一期一会の縁を、尊い自分の財産と思い大事にしています」
実は、私もご飯は一粒たりとも残さず食べるし、魚のようなおかずは、硬い骨を残すだけで、捨てるものは全くと言って良いほど無い。現役時代、様々な困難を乗り越え一生懸命働いた結果が、現在の生活の元になっていると思うと、自己否定にも繋がるような雑な食べ方は出来ないからだ。
とは言え、残した料理を何の躊躇いもなく捨ててしまう我が家の姫に、当て付けがましく一粒残さず食べる私と違い、彼の姫君は、なんと高邁で説得力のある信念の持ち主なんだろう。
モチベーションがどうあれ、私と同じように、ご飯を一粒残らず食べる人が身近にいたとは、なんと嬉しい事か。次回、宇佐美のナイスカップルに会えるのは何時のことだろう？
今度会ったら、彼の姫君と、ご飯の一粒残さず食べきり競争をしてみたらどうだろう？
米一粒でも摘まみ易く作った愛用のマイ箸を持参して、彼女と真剣勝負をしてみたいものだ。
（完）
脱稿日： 2015/07/11.403