2015/02/20.317

       マンボウの作文

                                                  

                     呆け

「呆けて来たんじゃない?」
妻が面と向かって言うようになったのは、最近の事である。
以前は冗談っぽく言っていたけれど、今は口癖のように平気で言うようになった。呆けてきたと言われると、一瞬ドキッとするのは、私に心当たりがあるからなのだ。

妻には知られていない事も含めると、確かに、呆けが来たと言われても仕方無い事がしばしば起きる。けれども、メガネを掛けているのに、
「俺のメガネは何処だ?」などと言うほど呆けてはいない。
とは言え、呆けがひたひた迫って来るような前兆があるのは事実である。

ヤカンをガスコンロの火に掛け、そのまま忘れてしまい、新聞を読んでいる最中に急に思い出し、慌てて台所に飛び込むと、湯気が加湿器のようにシュッシュと出ていたりする。
急いでヤカンをコンロから下ろすと、ほとんど水が入っていないヤカンに冷や汗を搔くのだ。尤も、今のガスコンロは限度を超えて加熱されると、自動的に火が消えるようになっているので、万が一水が無くなっても、ヤカンが溶けてしまう事はない。

けれども、運悪く消火機能が働かなかった欠陥品だったとしたら、一体どうなることやら?
最近アメリカで、自動車のエアバッグが作動した際に、壊れた部品が飛び散って運転手が亡くなったり、怪我をした事故が報告されている。ガスコンロだって、火が消えないまま火事になる事だってあるかも知れないのだ。

高速道路を逆走して事故を起こすのは、ほとんどが高齢者である。標識を見落として、出口を入口と勘違いしたりするのは、やっぱり、老化に伴う呆けが原因だろう。
失敗して、「俺も呆けたなあ」と、自覚するうちは良いが、自覚が無くなって、失敗を他人事のように受け止めるようになると、認知症の前兆と言って良いかも知れない。

妻に言われるまでもなく、私に呆けの症状が出始めた事を認めるにしても、なお強気でいられるのは、私は妻より八才上だからである。
八才も違えば、それなりに妻より老化が進んでいるのは当たり前である。妻が口癖のように、呆けたと呆けたとおちょくるのは、裏を返せば、私に呆けないように刺激を与えているとも取れる。
そう思えばこそ、私も無闇に反論しないで、有り難くお言葉を頂戴しているのだ。幸い、呆けが原因で失敗する現場を、妻に見られた事はそれほど多くはない。

先日、昼食に作ったインスタントラーメンに、添付のスープの素を入れ忘れ、全く味の無いラーメンを一口啜ったところで、はたと気が付いた。
隣の部屋でインターネットに熱中している妻に話して、笑いを共有しようと思ったが、呆けたと嘲笑されて話が長くなるのを恐れ、一人心の中で、「俺も呆けたなあ」と、呟いたのだ。

妻が見ていたら、なんだかんだと馬鹿にされるのは目に見えているので、わざわざ妻に話すことはないけれど、あまりの馬鹿さ加減に、ついつい話してしまう事が多々ある。
我ながら、「呆けたなあ」と思う中には、深刻に考えざるを得ない失態もある。

何時だったか一休みするために、セルフサービスのコーヒーショップに入った時の事。
コーヒーカップを乗せたトレーを片手に持ち、自分でスティックシュガー二本と、小さな容器に入ったフレッシュミルクをトレーに乗せ、コップに水を注ぐと、道路に面したカウンターに座った。何時もの通り、砂糖の袋を切ると、コーヒーカップにサラサラッと入れた。

そこまでは普段通りだったけれど、それ以降の事は、私の意識外の出来事としか言いようがない。誰に命じられた訳でもなく、自分でミルクの蓋を開けると、水の入ったコップにトロトロッと全量を入れたのだ。入れ終わったところで、私は頭の中が真っ白になった。

「なんだ!なんで水の中にミルクを入れるんだ!馬鹿じゃないか!」
コップに注がれた乳白色のミルクが、みるみるうちにコップの水に溶け込むと、得体が知れない液体に変わってしまったのだ。理科の実験じゃあるまいし、コーヒーショップでこんな馬鹿な事をするのは私くらいのものだろう。そう思うと、私は急に落ち着かなくなった。

私は思わず、私の左側に座っている二人の若い女性客に目をやった。彼女達は小さな声で何やらヒソヒソと話し合っている。
「もしかしたら、私がしでかした一部始終を見て、その馬鹿さ加減を嘲笑しているのかも知れない。いやいや、二人の位置からは、私の動作は見難いはずだ。少なくも、私のすぐ隣の女性は、同伴者の方に向かって話しているから、私の動作は見ていない公算が大きい。とすると、こちらを向いて話している女性が怪しい」

私は彼女の顔をチラッと観察したが、彼女は何事もなかったような表情をしている。
「もしかしたら、彼女達は気が付いていないのかも知れないな」
今度は、右隣に座っている女性をそれとなく観察した。
「雑誌を広げているので、恐らく馬鹿な現場は見ていないだろう。もしも見ていれば、彼女になにがしかの変化があるはずだ」私は次第に落ち着きを取り戻した。

白く濁ったコップの水をどうしよう?そんな不味い水を一気には飲めないし、かと言って、店の従業員に本当の事を言って、捨てて貰うには、恥を晒さないといけない。自分で捨てるにしても、何処に捨てれば良いのか、白濁した水が入ったコップを持って、店の中をウロウロするのは御免被りたい。
「まあいいや。これしきだから、飲んじゃえ、飲んじゃえ!」
私は目を瞑ると、全部の水を三口で飲んでしまった。

それにしても、私が何故そんなおかしな事をしたのだろう?何か考え事をして、頭が正常に働かなかったからだろうか? 私は、老化以外の原因を探ろうとしたが、どうしても思い当たらない。
「いやはや、参ったなあ。やっぱり、老化が原因かもな?」

アルミの蓋を開け、水が入ったコップにミルクを全量入れ終わるまで、何秒かの時間があったはずだ。その間、頭の回路に何か異変が起きたのだろうか?
インスタントラーメンに、スープの素を入れ忘れたという単純な失敗とは違うのだ。忘れたのでなく混濁したのだ。ミルクの蓋を開けてコップに全部入れ終わるまでの数秒間、私の意識は混濁していたという事になる。でなければ、こんな馬鹿な事をする訳がないではないか。
一種の意識障害という事ならば、行く行くは、姉と同じように認知症になるかも知れない。そう思うと、私はそこはかとなく恐怖を覚えた。

「呆けて来たんじゃない?」
口癖になった妻の一言で、私は背筋が寒くなる。妻の言う事が、現実味を帯びてきたからだ。
昔の事は覚えていても、昨日食べた夕飯が思い出せない。寂しいと言う他は無いが、すべて老化が原因と諦めざるを得ない。
さて、次はどんな失態を演じるのだろうか?
                                                                                                                                   (完)
脱稿日: 2015/02/20.396    

           
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