2012/11/05.257
千円床屋
三十年以上も通った床屋さん。少々、がらっぱちのオーナーは、秋田の出身で実家は農家である。農業高校を卒業すると家業を継がず、上京して理容学校に入り床屋さんになった。
その間の経緯は、聞いた事がなかったので、家業を継がなかった理由は知らず仕舞いである。先の見えない農業に愛想が尽きたのかも知れない。
長年通った床屋さんなので、オーナーとはざっくばらんに話せる間柄である。
ひと仕事終えると、オーナー自ら沸かしたコーヒーをサービスしてくれるが、専ら喋るのはオーナーである。
その彼が、ここ数年気懸かりになっている事があると言う。道路拡張の煽りで、借りている店舗が取り壊される運命にあり、その日が何時来るかと言う事だそうだ。
今の店舗は、一階が大家さんの酒屋で、その二階を隣の美容院と折半で借りている。
がらっぱちのせいか、客は限定されていて、プライベートな事に慎重な人はまず来ない。
自分の素性を、ベラベラ喋られる事が心配だからである。 私のように、何を喋られても一向に構わないと思う人だけが、寄り集まって来るのだ。
それに、オーナーの声は飛び切り大きいので、小さな子供さんや女性は怖がって来ない。
頭を刈りながら、よく喋るので、時々一連の作業に穴が開くことがあって、耳の掃除を忘れたり、鼻毛を切るのを忘れたりする。
話に夢中になると、切らなくても良い部分の髪を切ってしまい、左右のバランスが悪い髪形になったりするのだ。
だから、話に熱が入り過ぎた時は、客の方でコントロールしないと、終わったあとに、どんなヘアスタイルになっているか分かったものではない。
オーナー本人は、そんな些細な事は気にしない性格だから、客の落胆した心情などお構いなしで、料金さえ貰えば、それで終わりなのだ。
私は、オーナーのお喋りにはほどほど付き合って、あとは寝た振りをしてしまう。 付き合っていたら、少々のとら刈りは覚悟しないといけないし、場合によっては、毛が伸びるまでの間、少々恥ずかしい思いをする羽目にもなり兼ねないからだ。
それでも、お喋りするのは刈っている時だけで、顔剃りになると、さすがのオーナーも慎重になって、お喋りがパタッと止む。
私も、間違っても顔に傷を付けられないように、だんまりを決め込むのだ。
髪を刈る時と違って、オーナーの顔剃りは執拗なまでに念入りで、時間を掛けて顔の皮膚がツルツルになるまで、何回も剃って行く。
けれども、私はこの顔剃りが苦手で、家に帰ると直ぐに顔を洗ってしまう。剃刀でとことん削り取られた顔に、メンタムのような化粧品がべったり塗られていると、気持ち悪いからである。
顔を洗うと、剃刀負けした部分がヒリヒリと傷む。顔の肌を無理に伸ばして、皮膚の中に眠っている髭まで剃らなくて良いと思うけれど、オーナーの執念にクレームを付けるまでには、未だ至っていないのだ。
理容組合に入っていない低廉価の床屋や美容院に対抗するには、顔剃りは欠かせないので、組合加入店は、それなりの熱を入れているのを知っているからである。
それに、シェービングはセット料金の一部なので、止めてくれとも言い難い。 シャンプーは勿論、耳の垢除去、鼻毛カット、眉毛カット、マッサージ等を含めた一式いくらの料金体制を採用しているので、客はあれこれと注文し難いのだ。
オーナーの床屋は、組合に加入しているので、規定料金が高額で、私の小遣いを圧迫している張本人である。私のボランティア仲間の中には、頭髪が薄くなり、カットが簡単なので組合に入っていない安い床屋に行く人が多い。
私もご多分に洩れず、彼らと同じ仲間なので、そろそろ考えようと思った矢先の事。
先日、何時もの床屋に行ってみると、入り口のガラス戸に張られた紙に、
「長い間、ご愛顧有難うございました。本日をもって閉店させて頂きます。店主」とあるではないか。
とうとう、道路拡張で、止む無く閉店に追い込まれたのだろう。 長年お世話になった床屋が急に閉店してしまうと、困るのは常連客である。 常連なら黙っていても、いつもの通りの髪型にしてくれるし、会社や上さんから受けたストレスを解消させるお喋りが出来るからである。
閉店後のオーナーは、奥さんが営んでいる住宅兼店舗の床屋で働く事になっているが、私の家からは遠い上に、坂道が幾つかあって通うには難儀である。
この際、組合に加入していない料金の安い床屋へ行ってみようと考えた。
駅近くの商店街をぶらつくと、安い床屋が結構ある。シャンプー、シェービング、マッサージ付きでも、組合正規料金の半分以下の店もある。高齢者に限り一律カットのみ千円という店もあれば、カットだけ一律千円というチェーン店もある。しかも、十分前後で終えると言うのだ。
シャンプーやシェービングなどは家で出来るし、マッサージなんか、むしろ無い方が良い。私は高齢者に限り、一律カットのみ千円の店に入ってみた。
入るとすぐ券売機があって、店員の指示通り千円札を機械に投入して赤い札に換えた。
一律千円なら、何も札などに換える必要もないと思うけれど、システムがそうなら仕方ない。
椅子が五台あって、客は私ともう一人である。 シャンプーは無いから、正面には大きな鏡が一枚張ってあるだけで洗面台は無い。理容師は男性ではなく、みんな若い女性なのだ。
「どの様にカットしましょうか？」私に付いた理容師の第一声である。
嬉しいではないか。今まで、オーナーの口から、こんな風に訊いてくれた事はなかったではないか。オーナーが勝手にカットして、終われば当たり前のような顔で、料金を請求していたのだ。
だから、いきなり好みの髪型を訊かれても、面食らってしまう。
「そうね、ここに子供の頃からのハゲがあるので、そこが隠れるようにカットしてくれますか？」
私は、耳の後ろにあるハゲを指差した。 彼女は、分かりましたと言うと、直ぐにカットに取り掛かった。
驚いた事に、以前と比べカットされているという感じがしない。そっとそっと鋏を入れて、静かにそれでいて素早くカットして行くのだ。さすが女性の仕事は優しい。
彼女は、黙々と仕事をして、カットが終わると、掃除機のホースのような物で、頭に散らばった髪の毛を、残らず吸い取って行く。シャンプーも、シェービングも、マッサージも無いので、終わると手鏡を私の頭の後ろに当てると、
「これで、どうでしょうか？」
「結構です」納得したというよりは、反射的に答えただけである。
家に帰ってから鏡を覗くと、丁寧な仕事だと言う事が直ぐに分かる。シャンプーをしなくても、カットされた髪の毛一本見当たらない。
以前のオーナーより、良い仕事をすると感心したのだ。
それに、前は待ち時間を含めて、何だかだ二時間近くかかったと言うのに、たったの十分で終わってしまったのだ。
僅か千円で、質の高いカットを提供する床屋が、こんなにも身近にあるとは知らなかった。
私の情報収集能力は無いに等しい事は認めるにしても、高齢者に限り一律千円に決めた店側の判断には賛成し兼ねる。
一律千円ではなく、客のおつむを良く観察して、重量級、中量級、軽量級とクラス別の料金設定を考えて欲しい。
そうすれば、私のようにおつむが寂しい人が、大挙してやって来るに違いない。それが経営努力と言うものだろう。
（完）
脱稿日： 2012/11/05.337
