2012/06/16.246
空気のような存在
「君にとって、奥さんはどんな存在?」
こんな質問をされると、訊かれた方は頭を掻きながら、
「そうねえ、空気のような存在とでも言えば良いのかなあ」
などと答える人が多い。
「空気のような存在と言うと?」更に突っ込まれると、
「つまりさ、人間は空気が無ければ生きていけないけど、だからと言って、空気を意識している人はいないだろ。女房もそれと同じで、普段、意識していないけど、もしも、いなかったら死んでしまうほど大切な人だと言うことさ」
「そうか、でも、意識されてないと言う事は、当たり前過ぎて、どうでも良いと思われても仕方ないのでは?女房がそんな存在では、居ても居なくても良いと言う事にならないかい?」
「いや、そういう事じゃないんだよなあ。なんと言うか、特段、女房を意識した事がないというだけで、居なくても良いと言う事じゃないんだなあ」
「それって、何なんだよ?もっと、積極的に女房の存在を意識する事が出来ないのかい?」
「う〜ん、そう言われると困っちゃうんだけど、兎に角、料理にしろ、掃除にしろ、洗濯にしろ、何もかも女房がいないと俺は生きていけないもんなあ」
「なんだ、そんな事なら、女房じゃなくても、家政婦でも出来る事じゃないか」
「そりゃそうだけど、やっぱり女房じゃないと駄目だよ。この前ギックリ腰になった時、車で病院に連れて行ってくれたのも女房だし、俺の大嫌いなゴキブリを、叩き潰すのも女房だもんなあ」
「ハハハ!それじゃあ、君の女房は、今流行の便利屋みたいな存在じゃないか。そんな事なら、金さえ出せば済む事だよ。そうじゃなくて、生きる上での精神的な繋がりと言うか、運命共同体的な意識はないのかねえ」
「だからさ、いろんな事をやってくれると言う事は、女房とは運命共同体と言う事だろ?」
「軽い、軽い。そんな浅い考えでいると、いざとなると、女房に捨てられちゃうぞ」
「ほんとかよ?俺の女房は、そんな女じゃないと思うけどなあ」
「どう思おうと君の勝手だけど、いざとなって、泣きべそかかないようにした方が良いよ。脅かして悪いけど、空気のような存在だなんて、訳の分からない事を言ってると、痛い目に遭うかも知れないぞ」
「おい!脅かすなよ。俺の女房はそんな奴じゃないってば!」
「まあ、せいぜい奥さんに尽くして、先々、捨てられないようにした方が良いよ。俺からの忠告だよ。ハハハ!」
一般の女性の立場からみると、空気のような存在と言われると、答えに窮した人が、咄嗟に考えたまやかしだと思うに違いない。
「失礼ね!私は空気なんかじゃないわ。馬鹿にしないでよ。空気が無くなるなんて、あり得ない事を言って、誤魔化そうとしても駄目よ」
確かに、この比喩からすると、女性を茶化しているような嫌いがある。何やら、褒め言葉のように聞こえるけれど、よくよく考えてみると、女性を蔑んでいるようにも取れる。
第一、空気は目に見えないので、存在そのものが危ぶまれる。大切な人がそんな存在なら、誰が考えても馬鹿にした話で、言語道断と言えるだろう。
中には、キザな事が言えたと、内心得意になっている人も、後になって、単に受け売りに過ぎないと悟ると、一人赤面するのが落ちである。
それにしても、誰が最初に言ったのか知らないが、良し悪しは別にして大切な人を空気に喩えるのは、なかなか面白い発想ではないか。
空気だって、屋内の空気と屋外の空気は全然違う。穏やかな日の空気なら兎も角、台風や竜巻が起きた時の空気だったらどうだろう。室内であっても、パンパンに膨らんだ風船の中の空気が、何かの拍子で、爆発でもしたら、鼓膜が破れる事だってあるではないか。
そんな時の空気を女房に譬えるのは、少々危険過ぎはしないか? 大切な人が、手に付けられない程大荒れして、貴方に襲い掛る事があったとしたら、貴方はどんな対処法を考えているのだろうか?
恐らく、何の対処法も考えていないだろう。空気のような存在などと暢気に考えていると、貴方の奥さんは、人生後半のプログラムを、着々と実施に移す事を考えているかも知れないのだ。
マンネリした結婚生活にどっぷり漬かり、空気のような存在などとのろけていると、貴方は思いもよらない人生を、強いられる羽目にもなり兼ねない。 或る日突然、穏やかだった空気が掻き乱されて、貴方は寝耳に水とうろたえるに違いない。
今まで奥さんを、自分の介護ロボットのようにしか扱って来なかったツケが、一気に回って来た事すら分らず右往左往するだろう。
空気は吸ったら、必ず吐き出すもので、何の蓄積にもならない。そう考えると、やっぱり空気のような存在は、女性軽視と言わざるを得ないだろう。
吸っては吐き、吐いては吸ってと安閑と暮らしていると、空気だって嫌気が差してくる。
どうせ吐き出される存在なら、何も持たずに手ぶらで良いやと思うに違いない。お土産を持って行くのは、貴方とは別の人だとしたら、こんな怖い話はない。
我が身を振り返り、我が女房は空気のような存在と言って良いものかどうか?
仮にそうだとしても、 意識しないで済むような穏やかな空気ではない事は確かである。 室内にあっても、常時、風速四、五メーター程の空気が流れているし、時折、爆弾低気圧が発生して、大荒れの様相を呈する事もある。
そんな時、何時も思う事だけれど、趣味で遊んだヨットの操船術が役に立つのだ。
私の忍耐力では持ち堪えられないような強い風になれば、当然の事ながらメインシートを弛めて、セイルに入る風を逃せば良い。ヨットのスピードが落ちて快適さは失われるが、下手に頑張って沈(転覆)するよりは良い。
嵐のような風になれば、暫しの間、セールをシバー(セイルがバタバタなびく状態)させて、嵐が通り過ぎるのを待てば良い。勿論、屋台骨が流れては困るので、己の心に、しっかり投錨しておく事を忘れない。
だから、無風状態の空気に浸っているオシドリ夫婦に比べると、緊張感が違う。
否が応でも空気、いや風との戦いになるけれど、幸いな事に、四十年もの間、一度も操船を誤った事はない。
我が女房は、空気のような存在と言うには、少々波風が立ち過ぎるけれど、そうでないと、私の操船術も向上しないという相関関係にある。
ところが最近、何故か空気が穏やかになって、いまいち達成感が得られない。
年のせいなのだろうか? 淋しい事だ。
(完)
脱稿日:2012/06/15.326
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