2012/03/05.238
パジャマ
「ほら、貴方のパジャマを買ってきたわよ」
妻は帰るなり、紙袋をポンとテーブルに置くと、隣の和室に消えた。
「また、パジャマを買って来たのかい？」 私は面白くもないテレビのスイッチを切ると、紙袋に手を伸ばした。
「今、何か言った？」和室に入った妻の声に、
「いや、別に・・・、どんなパジャマを買って来たのかと思ってさ」
「開けて見てよ。男の人のパジャマなんて、みんな同じような柄なのよ。だから、今着てるのと似てるのよ。色は違うのを買ったけどね。古いのは捨てちゃって！」
私が、咄嗟に話しを逸らせたのは外でもない。また、パジャマを買ってきたのかと訊くと、間違いなく、妻は機嫌を損ねるからである。
「またって、なによ！そんなに買ってないじゃない？」こう来るに決まっている。 妻は被害者意識が強いので、ちょっとでも、気に障る事を言われると、自分が責められているような錯覚を受けるのだろう。 途端に自己弁護に走るのだ。それも猛スピードで。
私はもう四十年来の付き合いなので、軽く聞き流すツボを心得ている。
「ほら、きた」私は運動会で、綱引きをするような戦闘体勢に入るのだ。綱を引いたり、弛めたりして、しばしの間、妻とのゲームを楽しむのだが、最後は私がずっこけて、妻に花を持たすという、役者並みの演技で終わるようにしている。
時々、台本通りの演技が出来なくて、苦戦を強いられる事もあるけれど、その時は、急遽、綱引きから騎馬戦に変更して、とっとと逃げてしまう。
それでも、私が逃げ出した事で、妻はやや不満ながらも、勝者になった積もりでいる。
妻は、私とのゲームにせり勝って、その勢いで煩わしい家事仕事を、一気呵成に終わらせる魂胆なのだろう。
一方、逃げ出す私にしても、敗者という感覚は全くない。 毎回、オスカー像を手に入れるほどの名演技は、期待出来ないにしても、アカデミー賞の舞台に立っていると思えば、満更でもないではないか。
けれども最近、年のせいか、妻とゲームを楽しむ気力が失せつつある。
妻は私より八才若いので、まだ気力が充実しているのだろう。私の言葉尻を捕らえて、
盛んに挑戦して来るけれど、私は重い腰を上げてまで、ゲームをしようとは思わなくなった。これでは会話が少なくなって、夫婦間に思わぬ危機が、やって来ないとも限らない。久し振りに、妻とゲームをしてみよう。
「だって、今着てるパジャマは、まだ綺麗だから捨てちゃ勿体無いよ」
私のキックオフでゲームが始まった。
「いいのよ。もう汚いから。捨てちゃっても良いのよ」
「そうかなあ。まだ充分着られると思うけどなあ？」私が言うと、
「だめよ、もう。汚いの！」妻は汚いの一点張りである。
「そんなに汚くはないと思うよ。予備に取っておいたら？」
「もう、要らないわよ。ゴミに出しちゃうの！」
妻の声がだんだん険しくなり、私が同意しない事にイラついてきた。
妻は和室から出て来るなり、黙って階段を上り、二階に行った。しばらくして、下りて来ると、
「ほら、見てご覧なさい。汚いでしょ？」
妻は、私の古いパジャマを、私の目の前に突き出したのだ。 私はパジャマを広げると、裏と表を一通り見てから、
「どこが汚いのかなあ？ ボクには綺麗に見えるけど？」
「ほら、見なさいよ。ここら辺なんか、布が磨り減って汚いじゃない」
妻は、パジャマの胸の辺りを指差した。見ると擦れたような感じがしないでもない。
「これしきの事なら、まだ捨てるほどの事じゃないジャン」
「でも、汚いから捨てて良いのよ」
妻は、いきなり私からパジャマを取り上げると、クシャクシャと丸めたのだ。
もう勝負はあった。彼女が勝手に、勝利を宣言してしまったのだ。 これから、私が名演技を見せようとした直前に、彼女は目の前のオスカー像を、持ち去ってしまった。
妻は、所謂、出勤前の旦那の曲ったネクタイを、締め直したり、汚れた靴を磨いたりするような女性ではない。と言うより、私がそうさせなかったと言う方が正しいかも知れない。
私は決してお洒落ではないが、若い頃からネクタイや背広など、衣類はすべて自分で買って来た。細い体に似合わず、肩幅が広い事や、腕が普通の人より短い事などの理由で、服選びが難しいからである。
ただ例外があって、下着とパジャマだけは、妻に頼んで買って来て貰った。 下着とパジャマなら、多少サイズが違っていても着られるし、どんな柄や色でも、人様の目に触れないからと言うのが、妻と私の共通認識だったのである。
上着はそういう訳には行かないので、妻も、私の言うなりにしていたのだろう。
私も、妻の母性本能を尊重して、下着とパジャマには、一切ノータッチを決め込んでいるので、妻が買って来る下着やパジャマを、何の躊躇いもなくそのまま着ているに過ぎない。
そのせいか、下着とパジャマは、夏、冬、合着とたくさん揃っている。 私には、そのどれもが綺麗に見えるので、妻の鑑識眼に恐れを抱いていたけれど、よくよく考えてみると、妻の言う綺麗か汚いかの判別は、購入した年月日が、決め手になっているようなのだ。
先日捨てられてしまったパジャマは、その中でも最古参のパジャマだったのだろう。
敢え無く捨てられてしまったけれど、宿命だったとすれば合点が行く。
まだ着られるパジャマを、古い物からどんどん捨てて、新しいパジャマを買うのは、私への妻の母性本能が、未だ健在と言って良いのだろうか？
いやいや、そうではないだろう。
一般的に、女性は生まれつき、買い物への願望が強いと言うから、ただ単に、買い物意欲の一端と言うべきものだろう。
私は、妻の母性本能が必ずしも強くない事を知っているし、四十年以上も一緒に暮らせた背景には、そうした妻の特性が、私に良い影響を与えた事も知っている。
もしも、妻が母性本能たっぷりの女性だったとしたら、とっくの昔に、私は自堕落な男になっていただろう。
元々、駄目男の私が、妻の母性本能に甘えてしまうのは、目に見えているではないか。
女性の過度な母性本能は、裏を返せば独占欲や嫉妬にも繋がるし、強いては自己愛にも繋がるのだ。
母性本能恐るべし。これまでの私の経験から得た教訓である。
曲ったネクタイを直したり、汚れた靴を磨いたり、頭の先からつま先まで、事細かに面倒をみるような、母性本能丸出しの女性でなかった妻に感謝したいものだ。
妻よ、未だ着られるパジャマを、くしゃくしゃに丸めて、私とゲームをしようではないか。
アカデミー賞は何時でも君の物だから、勝手にオスカー像を持ち去って、ゲームセットにするようなルール違反は止めときな。
次回こそ、私の筋書き通りの名演技で、ゲームが終わるようにしたいものだ。
（完）
脱稿日： 2012/03/05.318
