2011/02/16.209       マンボウの作文

                                                       

                  
                      
                       足るを知る            

足るを知るとは、どういう事か? 足るを知る事が出来れば、毎日、ガツガツ生きないで済むと言うのか?
だけど、ガツガツ生きる事が、馬鹿らしくなるほど足るを知ってしまったら、一体、どうなるのか? 第一、そんな事があり得るのか? あり得るとすれば、すべてに馬鹿らしくなるのが私の理想だ。

だから、大いに興味はあるけれど、たとえ、理想に近づいたとしても、私の場合は足るを知ると言うよりは、諦観と言う方が当たっている。 初めから、努力を放棄してしまった挙句の結果だから、心底、足るを知った上での理想とは、根底から違う。とは言え、足るを知る事は、私の努力目標である。

例外はある。趣味には、足るを知らないでいたい。そうでないと、人生に航跡が残らないからだ。
航跡が残らないと、進路を見誤ってしまい、同じ道を何度も歩く愚行をしかねない。初心者が、山でリング・ワンダリングをするようなものだ。
趣味は幾つあっても良いが、一人の人間に出来る事は、高が知れているので、入り乱れて航跡が出来るとは思えない。だけど、これにも例外があって、何通りもの航跡を残す努力家もいるので、それはそれで大いに評価されて良い。

私の場合は、いまだに一本の航跡もない。航跡が短くて線にはならず、点で終わってしまうから、進むべき道が分からなくなるのだ。リング・ワンダリングの典型だ。
けれども、食べる事については、私は足るを知る男になれる自信がある。 食べるのもそうだし、作るのもそうだ。 早く言えば、食事を取ることについては、足るを知る素質があるのかも知れないのだ。

朝はトースト一枚、バナナ入りヨーグルト少々、コーヒー一杯、それだけで、王侯貴族が取るような豪華な朝食も、見向きもしないほど満足してしまう。 妻が時折作るジャガイモサラダやハムエッグは、消費期限直前の握り寿司みたいな物で、妻の機嫌を横目で伺いながら、嫌々食べるようなものだ。

外出先での昼飯は至って簡単、迅速。和食ならうどんかそばで、具に野菜の掻揚げ天婦羅が入っていれば大満足。それが旬の春菊なら、たとえ、ころもの厚い天婦羅だとしても超満足。大きな海老天の入ったうどんやそばも眼中にない。
洋食なら、カレーライスかスパゲティー。摂取したくもない脂が、肉と混ざり合った極上の霜降り牛肉のステーキや、人間のエゴで作られた肝脂肪の塊のようなフォアグラなど、私には無縁で、お相伴にあずかったところで迷惑な料理なのだ。

中華料理なら、焼きそばかラーメンと決まっている。稀には、チャンポンやチャーハンが取って代わる事もあるが、私の満足度は変わらない。 グロテスクな姿を曝け出す北京ダックや、何処かの汚染された川で捕獲されたかも知れない鯉の丸揚げ甘酢あんかけなどは、財布と相談する以前の問題なのだ。
だから、ワイロを使って頼まれたとしても、私の定番メニューに載る事はない料理である。 定番メニューから選んだ料理は、より私の口にあう物を提供する店を探す楽しみと合わせ、私の満足度は百点満点にほぼ近い。

不安材料があるとすれば、ゴキブリや髪の毛のような異物が入った料理が、たまに脳裏をよぎる事がある事ぐらいか? 以前、中華料理屋で、ゴキブリ入りの焼きソバを食べてしまった時や、数本の髪の毛が麺に絡んでいた時のトラウマが、未だに残っているからである。

料理ですら、その程度なので、飲み物に至っては更に簡単、迅速に決めてしまう。夏のアルコール飲料は発泡酒で、ビールに手を出すのは、来客のある時だけである。
春と秋はウィスキー。それも、ちょっと気取ったつもりで、スコッチウィスキー。 スコッチと言っても、ピンからキリまであるが、ピンの方には全く目が行かず、専らキリから選び出す。

私は、或るスーパーが、イギリスのメーカーと提携して造った極安のスコッチウィスキーを愛飲しているが、先日、それより五割ほど高いスコッチと飲み比べてみようと思い、足るを知る精神に、ちょっとばかり違反して買ってみた。
ボトルを二つ並べて、じっくり飲み比べてみたのだが、私の舌が馬鹿なのか、さっぱり違いが見い出せなかったのだ。

冬は日本酒が多いが、芸術品と見紛う見事な包装の日本酒には興味がないのが幸いして、米と水だけで製造された安価な日本酒が私の口に合う。
ネット販売で、プレミアムの付いた日本酒など、その価格を見ただけで、思わず吹き出してしまう。その酒を造った杜氏を侮辱する意図で笑うのではなく、私が飲んでいる日本酒があまりにも安い事を知って、思わず脳の海馬が反応するのかも知れない。

足るを知る事に、自信があるのは食事だけではない。ファッションにも自信がある。
何しろ私ときたら、衣類は着たきり雀で、何日でも同じ服を着ていられるのだ。 着替えがない訳ではなく、ただ、着替えるのが面倒なだけだ。 それに、定年退職後、形式張った所に行く機会も無くなったので、気取った服も必要なくなった。スーパーの季節はずれのバーゲンセールで、半額の半額で買って来る衣類で事足りる。

靴もまたしかり。兎に角、履ければ良い。足るを知るほどの事じゃない。
家屋は、そろそろ築三十二年になるが、建て替えようと考えた事はない。 仮に、建て替えを考えたところで、先立つ物が無いから夢でしかないのだ。 だから、衣食住のすべてで、図らずも、私は足るを知る事になる。

尤も、人それぞれ生活レベルが違うから、足るを知る度合いも違うだろう。
私のように、安物のスコッチで事足りる人もいれば、一本何万とするナポレオンのコニャックで事足りる人もいる。それはそれで良い。事足りる度合いが、高ければ高いほど、経済的な貢献度は大きくなるが、社会的責任も大きくなると思うが、どうだろう?
そう考えると、自動制御付き知足の人間は、残念ながら社会への貢献度が低いという事か?

先日、セルフサービスのコーヒーショップへ入った時の事。
ほどほどの混み具合の中、私はコーヒーカップを乗せたトレーを持って、ウロウロ席を探していると、運良く空いているテーブルを見つけたのだ。 やれやれと思い、トレーをテーブルに置こうとすると、背後から、
「すみません!その席に座ろうと思っていたんですが・・・」
振り返ると、アラフォーと思える女性が、同じようにコーヒーカップを乗せたトレーを両手に持って立っているではないか。
「あっ!そうですか。空いていると思ったものですから・・・」
「椅子の上に手袋を置いていたんですが・・・」
椅子の上を見ると、成る程、黒皮の手袋が置いてある。どうやら、あらかじめ、手袋を置いて席を確保していたらしい。私も時々、やる手である。
「おっと、すみません!ご一緒にと言う訳にはいきませんしね」
軽率にも、私の口から悪い冗談が飛び出したのだ。
「あら、いいですよ。もし、宜しければ、ご一緒に飲みませんか?」
思いがけない言葉に、私はその女性の顔をとくと見た。私の好みとちょっと違う。誘いに乗るかどうかの瀬戸際の決断を迫られたのだ。
「いえいえ、お邪魔でしょうから・・・」 私は、慌てて置きかけたトレーを持ち直すと、店の奥へと逃げ出したのだ。
足るを知る事を、無視した結果ではないと、言い切れるかどうか私には自信がない。
女性の方でも、私と同じ決断を迫られたに違いないが、足るを知る事では、彼女に一日の長があったと言う事だろう。 生半可な努力目標で、足るを知ろうとする私の完敗である。

                                                                                                                        (完)     
脱稿日: 2011/02/16.290

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