鬼ユズ（ジャンボユズ）
ウンチの話し
どんな容姿端麗の美人だってウンチは出る。 モデルや女優が、あの香ばしい個室の中で孤軍奮闘しているさまを、想像するだけで愉快である。
恐らく自分と同じような恰好で頑張っているのだろうと思うけれど、何故かそう思いたくないのは、美しいものは美しいままでおいて置きたいと言う心理が働くからだろう。
けれども、最近はお尻洗浄機能の付いた便器が普及してしまい、想像力もあまり働かなくなってしまった事が残念と言えば残念である。 ボタンを押して、暫く待てば、事が終わると言うのでは、如何にも味気ない。
さしたる奮闘もしないで終ってしまったら、やれやれと、一仕事終えてトイレのドアを開ける時の喜びも半減してしまうではないか。
昔、洗浄機付きのトイレが今のように普及していなかった頃、隣りの若い美人社員に、
「じゃあ、○○さんの処は大変だね」と暗に洗浄機のないトイレを使っていた彼女に、冗談混じりで言ったものだ。 その時は互いに気心の知れた者同士だったので、笑って済ます事が出来たけれど、相手に依ったら、どんな波紋が及ぶかも知れない禁句である。
外出先で公衆トイレを利用する時、女性は水を流しっ放しで用を足すと聞いた事がある。
あの時の音が外部に分からないようにする配慮からだそうだ。 それほどまでに気を使う女性に比べ、男性のそれは何とも色気がない。 もの凄い音がトイレの隅々まで響き渡る。
中にはオナラと同時にやらかす豪傑もいる。 素人があの金管楽器のチューバを思い切り吹けば、あんな音が出るのではないだろうか？
何時だったか、そんな状況に直面した私が、どんな男性が出てくるのかと、わざと手洗いを遅らせて待っていると、中からメガネを掛けた小柄で、神経質そうな華奢な男性が出て来たのには、がっかりさせられたものである。
妻とは別居中の友人で、ワンルーム・マンションを借りていた男と、夜遅くまで飲んだ事があった。
最終電車にも乗り遅れ、彼のそのマンションに泊まる事になった。 タクシーを飛ばして夜中の二時頃マンションに着き、六階の彼の部屋に転がり込むと、二人は部屋の明かりを点けっぱなしで布団の中に潜り込んだ。暫くして、異様に腹が空いた私が、ラーメンでも喰いに行かないかと誘ったが、彼にはその気がないようで、そのまま眠ってしまった。
私は起き上がると玄関のドアを開け、外廊下に飛び出した。 六階から見下ろす街は街灯の明かりやネオン等で結構明るい。遠くに都心に立ち並ぶ高層ビルがうっすらと見えていた。初めて来たマンションの勝手が分からず、私は階段を使って一階まで降りると、通りに出た。
百メートルほど先の右手に明かりが見え、それがどうやら小さな食堂のようである。 運良く腹を満たした私がマンションに戻り、階段を昇って六階の彼の部屋まで来ると玄関のドアを引いた。けれども、ドアは堅く閉まって開かない。部屋を間違えたかと思い、隣りのドアを音のしないように、そっと引いてみたけれど、そこも開かない。
上から見た建物の形がＹの字のような造りで、彼の部屋はちょうど真ん中に近い所にあった。
三ケ所のドアを引いても開かなかったので、私は再び一階に下りると建物の外に出て、通りから六階の明かりの点いた部屋を確認し、再び階段を上った。 外から確かめても、建物の中に入ると何処が彼の部屋なのか検討が付かず、またもや、手当たり次第にあちこちの部屋のドアを引く羽目になったが、どの家も鍵が掛かって開かない。
私は外から部屋の位置を再度確認する為に一階に下りた。マンションの管理人室の明かりは消えて、エントランス・ホールも薄暗い。彼の部屋が間違いなく六階にあるのかどうかを、確かめようと郵便受けをつぶさに探したけれど、彼の名前は見つからない。
そうこうしているうちに、突如、猛烈な便意が私を襲ってきた。慌てた私はまたもや、六階に駆け上がり、最後の部屋探しを試みた。思考能力も限界を超え、くたくたに疲れた足を引きずって、最初に引いたドアをもう一度引いてみた。けれど、ドアは無常にもビクともしなかった。
仕方なく鍵の掛かったドアの外から、小さな声で彼の名を呼んでみたけれど、部屋の中からは何の返事もない。便意はますます強くなり、苦しみで私の額からあぶら汗がにじみ出た。
私は腰を屈めて外廊下を端から端へとトイレを探したが、そんな所にトイレなどあろう筈もない。
そして、とうとう、私はやってしまった。事もあろうに、見晴らしの良い一番端の玄関ドアの前に座り込み、見事なまでのウンチの山を築き上げてしまったのだ。
苦しみから解放された私に、眼下の街の明かりが祝福しているようで、まさに極楽浄土の感があった。
部屋探しを断念した私は、路上で自転車に乗った仕事帰りのボイラーマンと意気投合し、最寄のＪＲの駅迄乗せて貰い、未だ明けぬ空の下、駅のベンチで朝の始発を待ち、ガラガラの電車に乗って会社に向かった。夜通し起きていたので、睡魔が襲い眠い目を擦りながら会社近くのコーヒー・ショップで時間を潰した。
会社に着くや否や、彼に電話して、朝のマンションで騒ぎが持ち上がっていなかったかどうかを、訊いたのは言うまでもない。
「さあね、別に何も騒いでいなかったけど？」
考えれば、玄関先にウンチを盛られた住人だって、恥ずかしくて騒ぐどころではないだろう。きっと、極秘に片付けたに違いない。本当にごめんなさい。
その後暫くはウンチと縁のなかった私だったけれど、つい先日、こんな事があった。 気の合った友人に誘われて、銀座で梯子をした挙げ句、最後は彼の馴染みの、小さな洒落たバーで飲んだ。宴もたけなわになった頃、私は店の小さなトイレに立った。
壁に沿って造作された飾り棚には、可愛らしい動物や子供の小さな置物が飾ってある。 私が用を足そうと下を見ると、真っ白な便器の中が汚物で黄色く汚れているではないか。
サラリーマン時代、長年に亘って遊んだ私の記憶でも、バーの便器がウンチで汚されているのを見るのは初めての事である。
「えっ！ 汚れていたの？ いけねえ、俺だよ。その犯人は」
帰り際に、だらしなく目尻を下げた友人が言った。続けて曰く、
「だけどさ、そのあとお前が入ったから、見つかってもお前がやったのだろうと店の人は思うから、 ま〜、いっか！」澄ました顔の友人に返す言葉もない。
たかがウンチされどウンチと、私は声を大にして叫びたい心境である。
（完）
脱稿日： 1999/02/13.011
* 若気の過ちと言いましょうか、酔っ払いは嫌ですね。マンションの人、本当にご免なさい。
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