2008/08/10.122
海の仲間
ラッキーか、アンラッキーか
「なんだって、こんな処にイルカがいるんだ！」 俺は自分の目を疑ったさ。
そりゃあ、十年近くも海に出てりゃ、土砂降りの雨にも似た水音をたてて群がるイワシの大群や、水面下を悠々と泳いでいるでっかいエイや、海面スレスレに飛翔するトビウオなんかは見たさ。
だけどさ、イルカを見るのは初めてだよ。
大体イルカがこんな処にいちゃいけないよ。そりゃ、確かに鎌倉の海だって相模湾の端っこだから、何かの拍子で泳いで来ちゃったと言う事はあるだろうけどさ。
でも、いちゃいけないんだよこんな危険な海に。何故って、見てごらんよ。アッチコッチに漁師の定置網が張ってあるじゃないか。間違ってその中に飛び込んだらお陀仏さんだぞ。
網の中には君等の好きな小魚が、出るに出られず泳ぎ回っているから心配なんだ。ご馳走と間違えて飛び込んでしまったら一巻の終わりってことよ。それとも、君等はお利口さんという評判だから、そんな馬鹿な事はしないとで言うのかい？まっ、いずれにしても、俺はびっくりしちゃったよ。
あの日は前週既に海開きを終えて、もう浜からはヨットは出せないと思っていたんだ。
海水浴場になってしまうと、図体のでかいヨットは危険だからという事でそんなルールが出来ているんだけど、ところがどっこい、今年は未だ海開きが行われていないというじゃないか。
俺は浜に立っている看板で知ったんだ。理由は分からんが例年より一週間遅れているんださ。
ラッキーだったね俺は。
で、早速ヨットを出したんだ。ラッキーがラッキーを呼ぶ事があるんだな。だってそうだろう？ 君等に会えるなんてラッキー以外の何物でもないぞ。昔、俺が現役だった頃、ある役所が極秘で民間の意見を訊きたいと言ってきた事があってね、ヒアリングと言う形だったなあ。
役所の手続きの簡素化について民間の忌憚のない意見を吸い上げ、役立てようとした会議に出席した事があったんだ。その席で俺の斜向かいに座ったお役人が、頭の良さそうなとっても綺麗な女性だったんだ。
俺はその時ラッキーだなと思ったもんさ。俺は調子に乗ってベラベラ喋ってしまったんだけど、その女性がのちの皇太子妃殿下になった雅子さんだったんだな。これもまあ、ラッキーと言えなくもないじゃないか。
それ以来俺にはラッキーな事は起こらなかったけど、君等に会えた事で俺は久々にラッキーな男になったというわけさ。
それにしても、一体何でこんな浅瀬にやって来たんだい？
最近、君等に触ったり、一緒に泳いだりして、精神治療する方法が持てはやされているけど、ひょっとして俺のくたびれた精神を癒すために来てくれたのと違うかな？
そうだとしたら、君等のジャンプを見た瞬間に治ってしまったよ。有り難うね。最初に君等、いや、その時は君一人だけだったんだ。それまでスイスイ走っていたヨットが急に風が落ちて、前に進むのも苦しいくらいになっちまったんだ。仕方なく俺はヨットを止めてブームの下から、前方の海面をぼんやり眺めていたんだ。
その時だったよ。君ら独特の三角の黒い背鰭が、スーッと俺の目の前を横切って直ぐに消えたんだ。
風がなくなって、海面には細かいさざ波しか立っていなかったので、はっきり君の背鰭、と言うより君等の仲間の背鰭だと確信したさ。君等の仲間にはシャチやサメのような獰猛な奴もいるから、その瞬間俺の心臓が高鳴って緊張が走ったんだよ。
今でこそ、こんな風に告白出来るけど、もしもシャチやサメだったらどうしようかと不安になったものさ。俺は舟の舳先に這い蹲ばり、息を殺して海面を見つめていたんだ。
そしたらあの大ジャンプ。しかも君等二頭で綺麗に揃った見事なジャンプを見せるじゃないか。不安が興奮に変わり、俺は凄く感動したね。
今まで君等には水族館やテレビでしか会った事がなかったから余計感動したんだね。
鎌倉の湾は狭いと言っても、広い海に繋がっているんだし、絶対にあり得ない事じゃないけど、まさかこんな処で、君等に会うとは思ってもいなかったからね。
これで俺のヨット遊びにも一枚箔が付いたと思ったものさ。あとで、海の仲間にこの話しをしたら、お前さんはラッキーだと言うじゃないか。俺だってホントにそう思っているよ。だけど、さすがに海の男達だね。
なかには君等の存在を風の便りで知っている奴がいたよ。なんでも、君等は江ノ島周辺の海域に住みついた親子イルカだと言っていたけど、本当かい？
俺には親子には見えなかったなあ。だってさ、君等が親子だとしたら俺のヨットにあれ程までに近づくような危険な事はしないと思うな。
君等はきっと珍しい物には何でも興味を持つ好奇心旺盛な若い恋人同士なんじゃないかな？
そう言えば、君等のジャンプを見るちょっと前に、俺のヨットがおかしい動きをしたんだよ。僅かな風を捕まえて何とか帆走しようとメイン・シートを絞っていた時なんだけれど、ヨットがグラ、グラッと揺れたんだ。
こんな場所には根（岩礁）はないし、あの悪名高いサルガッソー海の気持ち悪い海草などある訳はなし、ましてや俺は大蛸や大烏賊に襲われる予兆だと思うような夢想家ではないから、おかしいなとは思っていたんだよ。そうか、あれは君等が挨拶がてらに舟を揺らしたんだね、きっと。それなら説明つくな。
それにしてもご挨拶だね。俺はあの時、自分でも説明出来ずにヨットマンの名を返上しようと思っていたのさ。尤も、十年位のキャリアでヨットマンなどと言うのは、おこがましいかも知れないけど、君等がジャンプしてくれたお陰で、俺も少しは海の男の端くれにはなれたかもな。
大体、俺達人間にとって、何でも体験するって事はとっても素晴らしい事なんだ。だから、俺が君等に会わなかったら、こんな自慢話は出来ないってことよ。
海に年がら年中出ている仲間が体験出来ない事を、月に数える程しか海に出ない俺が体験しちゃったもんな。だけど、ラッキーだけじゃ済まされない問題かも知れないな。
自慢話が高じて、謙虚に生きる事を忘れてしまったら、それこそ、アンラッキーにもなりかねないよ。
俺にはその気があるから、今度会った時には、君等のミステリアスなパワーで、俺のその気（け）の病気を治療してくれないか。頼むよイルカ君。
（完）
脱稿日：2001/07/02.149
＊ サルガッソーの海
北大西洋にある海域で、深い海草でびっしり埋められた海上交通の難所。動力を持たない帆船時代は、ここで帆船が海草に捕まると動けなくなり、その後に風がなくなってしまうと食糧も尽きて、やがては幽霊船となって海を漂う事になると言う恐ろしい海域で有名。
