2007/10/30.094                                                                                                            

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　オープン前のレストラン

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　年は取りたくないもんだ

昔は良かった、などと言う積もりはないが、昔人気のあったアイドル歌手が、今はすっかりオバサンの貫禄で、テレビ対談をしているのを見ていたら、青春を謳歌していた頃を思い出した。
当時、彼女の歌は次々とヒットして、茶の間のアイドルとして絶頂期を迎えていたが、それも長くは続かず落ち目になった頃からは、盛場のバーやクラブで自分の持ち歌を唄っていた。

その頃私はまだ独身で、親の家から通勤していたので、懐具合に余裕があり、給料の大半がそうしたバーやクラブで消費されていた。仕事は忙しかったけれど、残業がある訳ではなく、定時になれば、今夜は何処の飲み屋に行こうかと思案するのが日課になっていた。

「赤坂に面白そうな処があるんだけど、ちょっと行ってみないか？」
ニューヨーク勤務から帰ったばかりの部長が、しばしば私を誘ってくれた。赤坂が六本木や渋谷になったりする事はあっても、銀座という事には決してならなかった。会社の接待費を使って飲み食いする社用族に、彼は特別の嫌悪感を持っていたからである。得意先を接待するかのように見せ掛けて、ツケの利く銀座で社内接待に興じる人間と一緒にされては迷惑と思っていたのだろう。

社内での勢力拡大に躍起となっている人間が多い中、彼はそんな事には全く興味を示さなかった。
金を使って集まるシンパに碌な奴はいないと見抜いていたので、保身に奔走するそんな連中を内心では馬鹿にしていた。とは言え、サラリーマン社会のそうした悪しきしきたりには比較的寛容で、部下から上がってくる飲み食いの伝票には黙って判を押した。

接待費などを自由に使える立場にあっても、彼は社内接待に使う事はなく、接待費本来の目的に忠実に従った。それだけに、部下を飲みに連れて行く事は滅多になかったので、年一度の忘年会が、彼のありのままの姿を見る事が出来る唯一の機会でもあった。

彼は私より丁度一回り上の物静かな紳士で、彼を補佐する副部長が、副文鎮と言うあだ名が付いているところから見ても、彼が如何に文鎮のように動かなかったかが分かる。
朝出社して夕方退社するまでの間、昼飯とトイレに立つ以外は滅多に席を外すことはなかった。山のように積まれた書類にせっせと署名しながら、退社後の夜のアバンチュールに想いを馳せていたが、部下の誰もがそんな彼の正体を見抜く事は出来なかった。

と言うのも、彼には殿下という別のあだ名があって、清潔で品行方正、至って真面目な人と言う印象があったからである。彼の家が私の家と同じ方角だと言う事から、時折二人は一緒に会社を出て、帰宅途中で意気投合し、夜の巷をうろつく事が多くなった。元来、私は自ら進んで同僚達を飲みに誘うことはしなかったが、誘われれば喜んで、何処でもひょこひょこ付いて行くのが私の流儀でもあった。

「行きましょう。でも、勘定は割り勘でお願いしますよ」私が釘をさすと、ニヤッと笑って、
「まあ、いいじゃないか」と言うのが彼の反応だった。
居酒屋で一杯引っ掛けるとタクシーを飛ばして外人バーや、怪しげな女のいるバーなどを梯子するのが何時ものパターンで、そうした時の勘定は、最初の一軒目こそ私の面子を考えて、彼が適当に私の負担分を決めたけれど、二軒、三軒と梯子するうちに、私が財布を開ける事はほとんどなくなった。

テレビで対談していた元アイドル歌手のおばさんは、彼と梯子した挙句の最後のクラブのステージで、しばしば酔っ払い相手に歌っていたものだ。テレビで引っ張りだこだった頃の可憐な彼女と、落ち目の頃、ナイトクラブで歌っている時の彼女は全く別人のように違っていた。ヨーロッパの貴婦人が纏うような黒いロングドレスに身を包み、頭には網付きの黒い帽子を被り、転びそうなハイヒールにステッキを持って歌っていた。

大衆の前ではアイドルだった彼女は、クラブに入れば小悪魔になった。それも見事なほどの小悪魔で、さすが芸人は違うなあ、と思ったものである。清純で可愛いだけのアイドル歌手だと思っていた彼女が、酔客のヤジに堂々とジョークで返すなど、機知に富んだ才能は、酔っ払い相手のクラブでしか発揮されないものだったので、酔っ払い達は大喜びだったのである。

客のヤジがエスカレートしても、彼女の才能が萎えるどころか、益々酔っ払いをやり込めてしまうので、客席からはやんやの拍手が起こった。私が多くのタレントに感心するのは、彼等は一芸にだけ秀でるのではなく、隠れた才能を必ず持っている事だろう。絵を描かせたら上手い人が結構いるから驚きである。
だから、彼女が酔っ払いの一人や二人を手玉に取ることなど朝飯前だったのかも知れない。

アイドルの盛りを過ぎて皺が目立つ三十路（みそじ）にもなれば、テレビの仕事が減るのは当然だし、本人だって何時までもアイドルでいられる訳はないと考えた挙句の仕事に違いないが、時代が去って行くようで、なんだか淋しい思いがした。クラブで飲んで遊んでいる時は、そんな気持ちなど起きなかったけれど、茶の間のテレビで彼女の姿を見ていると、ふっとそんな気持ちになる。

アイドル歌手は次々と作られるから、いずれは同じ道を辿るのは仕方ないとしても、彼女達が使い捨ての人形のような存在に成り切れるのも、生まれつきの秀でた才能がそうさせるとしか思えない。
それに、若い頃アイドルだった歌手ならば、たまにはマスコミが取り上げてくれるし、当時彼女のファンだった人が彼女のその後を知りたくて、チャンネルを回してくれる事も考えられる。

先日テレビで見た彼女はすっかりオバタリアンになっていて、昔の面影はほとんどない。
女性って、どうしてあんなにも変わってしまうのか？　性懲りも無く、夢を追い続ける馬鹿な男に生まれて正解だったのか？　それは兎も角、当時、部長とクラブやバーで、現を抜かして深夜まで飲み明かした頃が懐かしい。

先日、東京に住んでいるその部長に電話で、
「たまには、横浜の中華街で飯でも喰いませんか？」と誘ってみた。
「いいねえ」と彼。　「じゃあ、日取りを決めたら又電話しますよ」と私。
翌日、彼の方から電話が来た。
「考えたら、わざわざ横浜まで行って、飯喰うほどの事もないからさ、君がこっちに来たついでの時にでも電話して、その時僕が居れば、どっかで会おうじゃないか」と言う。

昔の元気がすっかりなくなった。まだ古希を三年過ぎたばかりだと言うのに。
老いは知らず知らずのうちに忍び寄って来る。本人にはそれが分からない。

                                                                                                                             （完）
脱稿日：　2001/03/07.134

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