2007/06/20.081
我が家の即席タンメン 
恥掻きタンメン
「遊びに来たお友達を連れて、お昼に駅前の中華そば屋に行ったのよ。みんなでタンメンを食べたんだけどさ、あんまり不味いので、恥を掻いちゃったわよ」
こう宣（のたま）わったのはカメラ屋と言うか、焼き付け屋と言うか、兎に角、あのフィルム現像承り所を兼ねた煙草屋のオバサンである。
この日、ボクはたまたまフィルムの現像を頼みに来て、オバサンと世間話をしていたのである。側にオジサンもいたけど、喋るのは専らオバサンだから、ボクはこの際、オジサンは無視すると言う暴挙に出たのである。
オジサンはオバサンの連れだから、亭主と言う事になるが、そのオジサンは女房の饒舌にウットリするような顔で、フンフンとただ頷いているだけの存在だから、無視されても仕方ないだろう。
オバサンとの話しの中で、彼女が恥を掻く程不味いタンメンを、ボクがもう何回も喰っていた事が分かり、がっくりしてしまったのである。オバサンの言う不味いタンメンを喰っていたのは、不覚と言えば不覚だけれど、ボクにはオバサンが言うように、恥を掻く程不味いとは思えなかったので、それならば普段オバサンはどんな美味しいタンメンを喰っているのか俄然興味が沸いて来たのである。
「そうねえ。ボクはあそこの料理はマアマアだと思うけど、タンメンはそんなに不味かった？そう言えば、この辺りには旨い中華料理屋がないもんね」とか何とか言って探りを入れると、
「あるわよ。ほら、がってん工房がある橋の向こうの中華そば屋さん。あそこのタンメンは美味しいわよ。だけどサンマーメンも美味しいのよ。この人は何時もチャーシューメンを食べてるけどね。肉が好きだからしょうがないのよ」黙って聞いていたオジサンを顎でしゃくるとオバサンが言った。
しめしめ良い情報を掴んだぞと内心思いながら、うわべは冷静を装って、
「知ってる、知ってる、小さな店でしょ？ へ〜！ そんなに美味い物喰わすの？ 目立たない店だから、出前中心の店だと思っていたけど、そんなに美味いのなら今度行ってみるかな」
「間口は狭いけど、カウンターがあって、その奧に小さな座敷もあるわよ。まっ、兎に角、美味しいから一度でいいから行ってごらんなさいよ。そこの区役所や警察暑の人はみんなあそこへ食べに行ってるんだから」
オバサンはもうすっかりノリノリである。区役所や警察の人がみんな食べに行くとは随分大袈裟なと思ったけど、ボクの家の近くに隠れた名店があるのかも知れないと思うと、何やら誇らしい気分になってきた。中華料理の好きなボクにとってはランクＡの情報ではないか。
「その店の美味しい味を知ってるから、駅前の店で恥掻いたと言う訳よ」
オバサンは得意満面と言う顔でそう締め括った。
「でも、人それぞれ好みがあるからね」ノリノリのオバサンを牽制するように、それまで黙って聞いていたオジサンが、小さな声でチョッピリ存在感を示した。
オバサンの言う店は以前からボクも気にはしていた。昼近くなると店の主人が出て来て暖簾を下げ、三時頃には暖簾を下ろしてしまう。だから、地元の人や近くのサラリーマンを相手に、細々と商売しているような店だと思っていた。出入りする客の姿をあまり見た事がないので、繁盛しているようには思えなかったが、オバサンがあれ程薦める店なら、是非入って味を確かめたいと思った。
今までボクが食べていた駅前の中華そば屋は、いろんな組合から贈られた額に入った賞状が、カウンターの上の壁にズラリと並んでいたので、味はお墨付きだと思っていた。
事もあろうに、オバサンはその店のタンメンを恥ずかしい程不味いと言ったのである。ボクの期待は高まるばかりで、翌日その店に行ってみた。まずはどんな料理があるのかと、ウインドケースを覗き込んでギョ、ギョッ！
良く見ると、サンプルのタンメンもラーメンもチャーシューメンも 埃まみれで、もう何年間も掃除もしないでそのままと言う感じに思わずグエッ！
「何だよ、何だよ、嘘だろう！ バカバカ、こんな中華そば喰えるかよ。不潔！」
失望感に打ちのめされて、ボクはさっさと帰って来てしまった。ところが、ボクがマアマア旨いと食べていたタンメンを、恥を掻くほど不味いと言ったオバサンの言葉がどうしても引っかかる。
「あの不潔な店の料理はそんなに美味いのか？ そうか、あの店は中味で勝負してるんだ。そうだよ、中味だよ、中味！」そんな風に思い直すと居ても立ってもいられなくなり、一週間後に再びあの不潔な中華そば屋の前に立ったのである。
注文はタンメンと決めていたので、あの忌まわしいウインドケースを覗くことなく暖簾を潜り、半分開けたままの古ぼけたガラス戸の横をすり抜けて店内に入った。右手に奥行きのない狭いカウンターがあって、左手には四人掛けのテーブルが二つある。奧のテーブルには地元の人らしい三人の男性客が、料理を前にビールを飲んでいた。
店の奧には四畳半程度の座敷があって、そこには数人の女性客がいた。ボクは入り口に近い空いたテーブルに座ると、迷わずタンメンを注文した。
店内には空調機らしきものがなく、座敷と店内に一台づつくたびれた感じの扇風機が面倒臭そうに回っている。あまり上手くない字で書かれた薄汚れたメニューが、隣りに掛けたカレンダーとのバランスも考えず、ただ、漠然と壁に貼ってある。
中華料理特有のあのシャカシャカと言う鉄鍋の音が止み、暫くすると、湯気の立った熱いタンメンがボクの目の前に運ばれてきた。煙草屋のオバサンが一度は食べろと言った美味いタンメンをこれから喰うと思うと、やっと念願が叶ったようでウキウキした気持ちに満たされた。
タンメンはコショウとラー油をふんだんに入れて食べると美味い。テーブルの上のコショウの瓶を掴もうと手を伸ばしたが掴むのを躊躇した。ラベルが汚れて、その上油っぽい。ラー油はと見れば、これも油でベトベトしている感じの瓶で、蓋を取るのもはばかれる。
コショウやラー油なしでも美味い物は美味いだろうと思い、この際香辛料は諦め、タンメンと真っ向勝負をする事にした。人に薦めても恥を掻かないで済む美味いタンメンとはどんな物なのか、早くこの舌で確かめたい。タンメンは最初にスープを飲むだけで私の評価は決まってしまう。
「ウム？ ニンニクが利き過ぎるな？ ムム？ 味がくどいな？ こりゃ、駄目だな。タンメンはもっとすっきりした味でなきゃ！ 湯麺と書くくらいだからな」
ふと顔を上げると、調理場から出て来た店の主人が、女房とカウンターの席に坐り、前のテーブルで煙草を片手にビールを飲んでいた三人組と談笑し始めた。主人とその女房は煙草を取り出すと、二人してプカプカ吸い始めた。奧の座敷に置かれた扇風機の風に乗って、煙草の煙りがモウモウと私を直撃したのである。
金輪際（こんりんざい）、二度とその店には行くまいとボクは決めた。ボクには恥を書くほど不味いタンメンの方が合っているようだ。煙草屋のオバサンに会ったら、何と言おうか？
「味を確かめる間もないほど、けむたいタンメンだったよ」とでも言っておこうか。
それに、一度は行ってごらんなさいよと言ったなら、二度は行くことないもんね。
（完）
脱稿日： 2002/08/10.196
