2007/03/20/072　                                                                                                        　　　                                                                                                           艇　庫

　 　                                        イカ君ごめんね

イカ君ごめんな！ まさか君までいるとは思わなかったんだ。本当なんだ。
そりゃあ、小さな生き物はいるとは思ったさ。例えば、エビ君やカニ君、それにワレカラ君などさ。だって、流れ藻は彼等のマイホームだもんね。
僕だってその程度の事は知っているんだよ。何時だったかなあ？　確か、五月晴れもそろそろ終り、灰色の雲が海面と重なり合って、長い梅雨の到来を思わせる憂鬱な季節の頃だった。　君も知ってる通り、あの元気のいいトビウオ君がピュンピュン飛び回っていた頃さ。

ところで、なんでトビウオ君はあんな芸当をして見せるのかイカ君知っているかい？
君なら本当の事を知っているんじゃないかな？　不思議に思って、以前僕は図書館で調べたことがあったんだけど、どうもピンと来なくてね。我々人間って奴は、権威には弱いくせに、自分勝手で傲慢な生き物なんだ。
最初に誰か偉ぶった人間が勝手に想像して、尤もらしく本などに書くとそれが定説となってしまうんだよ。

僕も図書館で読んだ偉い学者の見解に、一時は納得しかかったんだけど、僕は疑い深い性格なもんで、今ではホントかなと思ったりしてるのさ。だってね、トビウオ君が空中を飛ぶのは、シイラみたいなでかい魚に追われた時に、一時的に空中に飛び出して姿をくらます為だと言うのさ。そうかなあ？
だったら、なんで他の魚は飛べないんだ？　不公平じゃないか。

どうせ、ホントの事は誰も分からないから、先に言った人には敵わないって訳よ。イカ君にも分からなければ、いいって事よ。あれ！僕はなんの話しをしようとしていたんだっけ？
そうそう、そのトビウオ君の空中散歩がたけなわだった頃に、僕は浜辺で流れ藻を丹念に調べてみたのさ。
そしたら、まだ赤ちゃんのカニ君やエビ君、それにワレカラ君などが、流れ藻の中にたくさんいたのさ。イカ君はワレカラ君をよく知ってるだろ？

でもね、ワレカラ君は人間には馴染みがなくて、ほとんどの人は知らないのさ。僕だって最初はシャコ君の赤ちゃんかと思ったさ。でも疑い深いだろ？僕って。早速、図書館に行って調べたんだ。そしたら、ワレカラと言うではないか。おかしな名前なんで、今でも忘れないで覚えているのさ。

まさか、イカ君まで流れ藻の住人だったとは知らなかったよ。それに後で調べた事なんだけど、僕は最初イカ君があまりに小さいので、スルメイカの赤ちゃんだと思っていたんだけど、そうではなくて、ヒメイカと言うイカだっていう事が分かったのさ。それにしても、成長しても１センチ半しかないとは、イカ君は随分可愛いイカなんだね。してみると、イカ君は立派な大人だったんだなあ。

ところで、今日はまだ２月の初旬だと言うのに、３月中旬の陽気だってさ。
ついつい海に出たくなってね、舟を出したという訳さ。僕はね、海に出ると何故か子供のようになってしまうんだ。
だから、海の上では性格だって素直なもんさ。嬉しくなってはしゃぎ回っちゃうのさ。何故かその日は流れ藻が多くてね。

君達小さな住人達には悪いと思ったけど、舟の上からホンダワラの流れ藻をすくってみたんだ。きっと、君達に会いたかったんだね。上手くすれば小さなサカナ君にも会えるかも知れないと思ったんだ。
舟の上には僕一人だったから、淋しかったんだと思うよ。だからと言って、みんなのマイホームを台無しにしても良いと言う理屈は成り立たないから、そんな事をしたあとは、何時も反省してるのさ。
だから、誰もいない留守と分かれば、流れ藻は直ぐに海に返しているさ。

２，３回そんな事をやっていたら、流れ藻からこぼれ落ちた僅かな水たまりの中で、イカ君がデッキにへばりつくような格好で泳いでいたのさ。あの時はイカ君も必死だったんだね。だけど、あまり褒められた姿じゃなかったよ。
僕が見つけなければ、あのまま日干しになっていたかも知れないからね。僕は直ぐ君をコックピットの中の排水口に溜まっている海水のなかに入れたんだ。そしたら、イカ君は嬉しそうにスイスイ泳いでいたぜ。

でも、びっくりさせて悪かったよ。　えっ！　何だって！　何故俺を直ぐに海に返してくれなかったんだって?
うーん！　そう言われると返す言葉がないけど、多分僕はイカ君と一緒に、セーリングしたかったんだと思うな。
浜に戻ってから、バーゼルを取りに一旦艇庫に帰った時に、君の事をオーナーのオバサンに話したんだ。こんな珍しい話しをするのは、僕が初めてだったんだろうなあ。オバサンったら目を輝かせて聞いていたよ。

浜辺で艤装を解いていたら、二人の小さな可愛い女の子が、息を切らして僕のところに飛んで来たんだ。
大きな子は優子ちゃん、小さな子は明子ちゃんと言ってね、ヨット仲間の子供達なんだ。上の子は小学一年生、下の子は未だ幼稚園に通っている姉妹なのさ。
今日は三連休の中日だから、父親に連れられて遊びに来たんだろうけど、その時は親より先に僕のところへ飛んで来たと言う訳さ。

ところが、僕の前で二人ともただ突っ立っているだけで、何を話しに来たのか分からないのさ。
それで、僕がお姉ちゃんの優子ちゃんに、何を話したいのか訊いたら、口をモグモグさせるだけなんだ。
何かを思い出そうとしているらしいけど、それが何だか忘れてしまったんだろうね。

「お姉ちゃんったら、何を話しに来たのか忘れてしまったらしいよ。駄目なお姉ちゃんだねえ」
僕が妹の明子ちゃんに言うと、それまで姉の体面を考えていたのか明子ちゃんが、
「あのね、オバチャンがイカの赤ちゃんがいるって言ってたよ」艇庫のオバサンに聞いてきたのだろうね。
「なんだ、イカの赤ちゃんの事だったのか。ほら、見てごらん。ここで、泳いでいるよ」
僕がコックピットの水たまりで泳いでいるイカ君を指差すと、
「わーい！可愛いな。イカの赤ちゃんだ！」二人は大喜びなんだ。
「オジチャン、３時に歯医者さんに行かなくてはならないの。直ぐに帰って来るからイカの赤ちゃん、このままにしておいてね」

これは困ったと正直思ったよ。だって、小さな水たまりだもの。その時は水温が上がって、イカ君も青色吐息の状態だったんだ。そろそろ、海に帰してやろうとしていた矢先だったので、どうしようかと迷いながら、舟をバーゼルに乗せ艇庫に戻って来てしまったんだ。とりあえず、オバサンにも見て貰おうと、僕がコックピットの水たまりを覗くと、イカ君がいないのだ。僕は一瞬、すべてを理解したさ。

舟が揺られて運ばれる間に、コックピットの水たまりが跳ねて、水と一緒にイカ君も外に投げ出されてしまったという訳さ。案の定、イカ君！君は太陽で温められたデッキの上で、息絶えていたのさ。
イカ君の命をこんな風にもてあそんでしまった僕には、自然と遊ぶ資格はないのさ。
海が好きだなんて、恥ずかしくて二度と言えないね。イカ君を犠牲にして、子供達に喜んで貰った事だけが、 イカ君の供養と思っているよ。
傲慢な人間には、こんな事しか言えないのさ。ごめんな、イカ君！
　
　脱稿：　２００１．０２．１３・０７０　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（完）
　

　＊　コックピット：　舟を帆走させるための操縦席
  　   バーゼル：　ヨットを乗せ運搬するための台車       　　　　                                                                                                    

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