2006/10/10.056

                                                                                                  駅前のコーヒーショップ

                                            ご熱心なこと

私が入社した昭和３８年頃の女性社員の話しである。
今の若い女性には信じられないかも知れないが、当時はまだ男社会で、ほとんどの会社に役付きの女性はいなかった。同時入社で男性はどんどん出世しても、女性はたとえ優秀で勤続年数が長くても平社員のままだった。
今でこそ、お茶汲みは差別だと言うけれど、その頃は女性社員の仕事の一部で、朝出勤すると、女性が交替で熱いお茶を淹（い）れてくれたのである。

そればかりではない。当番の女性は定時より早く出社して、部長以下全員の机の上を雑巾で綺麗に拭いてくれた。更に驚くべき事は、男性社員の引出しを開け、中にある全部の鉛筆（当時はペンと鉛筆が筆記用具だった）
を鉛筆削りで綺麗に削り、長い鉛筆から短い鉛筆と並べてくれたのである。
一方、男性達はそうする事をごく自然に受け止めていた。

女性が男性と一緒に仕事に行く時は、男性から一歩下がって歩いたし、お得意さんとの打ち合わせに同席しても、自分から話すような事は決してなかった。何時でも、何処でも、男性社員の補佐という立場を守っていたのである。だからと言って、男性が女性を粗末に扱っていたのかというとそうではない。
むしろ、女性を大事にしていたように思う。仕事が終ると女性を誘って、しばしばみんなで飲みに行った。今のように割り勘ではなくて、すべて男性の驕りだった。
座が盛り上がっても、夜９時頃になると、男性が呼んだ会社のハイヤーで、女性は家に帰されてしまったのである。良家の子女が、夜遅くまで飲む習慣がなかったからである。

そんな時代を経験した私が、先日、微笑ましく思った光景に遭遇した。場所は駅前のドトール・コーヒー。
私がこの店に来るのは、食後のコーヒーを飲み終えた人達が、それぞれの持ち場に戻る一時頃が一番多い。
空いていれば、長居をしても、店の売り上げには影響ないだろうと思うからである。

何時ものように、女性従業員の明るい声に迎えられて、窓際の丸いテーブルの席に着いた。
私がこのコーヒー・ショップを利用するのは、好きなコーヒーを飲みながら、図書館で借りてきた本を読んだり、自作の下手糞な作文を添削したり、川掃除のボランティア仲間と打ち合わせをする為に来る事が多い。
その日は貸し出し期限が切れそうな本を、一気に読んでしまおうとやって来たのだが・・・

隣に座っている四十才前後の二人の女性が気になって仕方ない。
と言うのも、二人がむやみやたらと両手を動かすので、テーブルの上のコーヒーをこぼさないかと心配で、落ち着いて本を読む事が出来ないのだ。手ばかりではない。顔も上下左右に動く。まるで、あっち見てホイ！、こっち見てホイ！をやってるようだ。まさか、いい熟年女性がそんなゲームをしているとは思わないが、そんな動作を度々繰り返しているのを見ると、本を読むどころではなくなった。

一応は本を読んでいるような格好はしていても、全神経は二人に集中してしまう。
しばらくして分った事だけれど、二人はどうやら水泳の型を身振り手振りで、教えたり、教えられたりしているらしい。水を掻くような両手の動きは、まさに平泳ぎの形だったので、それと分ったけれど、私の真横にいる女性が泳ぐ時は、彼女の手の先が私の肩先まで接近する。

ああだ、こうだと言いながら、二人の女性は代わる代わる何度も泳いでいる。
先輩格らしい女性が、泳いでいる女性の腕を途中で止めると、彼女の手の甲を軽く叩いた。すると、両手を前に伸ばしたままの女性が、手のひらを丸くすぼめて一気に水を掻く。それを見た先輩格の女性は「そう、そう」と言わんばかりに大きく頷いていたが、それでも物足らないのか、今度は自分から平泳ぎをして見せている。

二人の両腕がテーブルの上で、代わりばんこに閉じたり、開いたりしての力泳振りである。
北嶋康介選手を思い浮かべてか、二人は夢中で泳いでいるので、周りの迷惑などてんで気にしていないのだ。
オバタリアンと言うには未だ若いから、ごく普通の主婦なのだろう。
「今の女性は元気でいいなあ」なんて暢気な言葉で誤魔化すしかない私だが、慎ましやかな昔の女性が見たらどう思うだろうか？昔はそんな活発な女性はいなかったから、ただ、口をアングリ開けて見ているだけだろう。

平泳ぎが終ると、今度はクロールで泳ぎだした。これがまた愉快なので、私は思わず吹き出しそうになってしまった。ひと掻きする度に顔まで横にするから、私は目が合わないようにしていたけれど、彼女達の声があまりに大きくなったので、つい見てしまったのである。知らない人と身近で目を合わしてしまうほど、バツが悪い事はない。

ところが、私の視線など全く気にしないほど夢中で泳いでいたので、私の方はと言えば、
「ほほ〜、よくやりますなあ！」と言う感じでやり過ごしてしまった。
「あなた！そうじゃないのよ。こうよ！」今度は反対側に座っていた女性が、自分の腰を両手で支えると、スッと胸を張り、いきなり飛び込んだのだ。彼女はクロールで泳ぎながら、手の掻き方を克明に説明している。
見ると、テーブルの下で足までバタバタさせている。

顔が潜ったままなので、どうしたのかなと思って見ていたら、突然ガバッと顔を私の方に向けた。
「ほほ〜、今度は息継ぎの練習ですか？なかなか上手いもんですねえ〜」
けれども、そんな余裕を見せた私を全く無視する大胆さ。恐れ入りました！何時果てるとも分からない二人の水泳談義に別れを告げて私は店を出た。店の外からガラス越しに中を覗くと、二人は相変わらず泳いでいる。

昔の女性は常に周りを気にしたものだ。女性が普段の会話で大きな声を出したり、派手なジェスチャーをしたりする事は、みっともないと思われていたので、女性同士の会話も静かなものだった。そうする事が女性のたしなみと社会の誰もが思っていた。昔の女性の特質は、清潔、優しさ、そして控え目だったように思う。

そうした束縛から解放された今の女性の中には、タバコの吸殻を平気で路上に捨てる人、家の中の整理整頓が出来ない人、夫婦喧嘩で亭主を殴ったり我が子を虐待する人、遥か年下の男と結婚する人、電車の中で痴漢を捕まえてしまう人などがいる。
「すげえなあ！驚いたなあ！これが男女同権と言うものか！」

だけど、近頃の男性の中には昔の女性のように、清潔で優しくて控え目な人が多いから、世の中、これで結構調和が取れているんだなあと思う。
コーヒー・ショップで泳いでいた女性は、今では日本の平均的な女性像なのだろう。
それにしても、コーヒーカップを倒さないで泳いでいたテクニックは大したものだ。
あれは賞賛に値する。

 脱稿日：2003/12/30.239                                                                                           （完）

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