2006/08/10.050                                                                                                                                                                                                                                                                                             　　ヨットは最高！　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　                                             　                                              
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 極楽はいずこにありや?

昨晩、私は寝しなに下剤を飲んでいた。医者から処方された漢方薬で効き目は穏やかである。
一昨年、青天の霹靂のようなガンの手術で胃の三分の二を切って以来、便を柔らかくするための下剤は、私の常備薬になっていた。寝しなに飲んだのは、二日ばかり続いた便秘を翌朝すっきりさせたい事と、万が一、腸閉塞など起こしてしまったら、事は重大と思ったからである。

ガンの再発はほとんどないと医者からお墨付きを貰っていたけれど、胃酸の分泌が少ない上に、食べた物が小腸で消化出来るまで貯めておくバルブの役目をする幽門も切除してしまったので、食べ物が充分こなれないまま小腸に流れてしまう。だから、下剤を飲まないでいると、食物が小腸で詰まってしまう心配が絶えず付きまとうのだ。

それはさておき、今日は朝から高気圧に覆われ、そよ風が吹く絶好のヨット日和である。
定年後、その日の気象次第で海通いが続いていた私は、何時ものように大きなセーリングバックを担ぐと、いそいそと家を出た。終点のバス停から少し歩き、ＪＲに乗り換えると、二つ目が目的の鎌倉である。改札口を出ると、  冬の寒さにもめげず、観光目的のグループが此処かしこに集まり、楽しげな会話を取り交わしている。春のような陽射しとは言え、まだ二月の下旬。顔を撫でる風は冷たく、露出した部分の肌は冬を敏感に感じている。

ケンタッキー・フライドチキンのオジサンが立っている角を左に曲ると、広い道が浜まで真っ直ぐ伸びている。
私は重いバックを背負い直すと、気分も上々、その道を歩き出した。
浜まで半分ほど歩いたところで、急にお腹がブツブツと鳴り出した。

「おかしいな？朝にはちゃんと便通もあったのに」
少々不安になった私は足を早めた。ヨットを預けてある艇庫までは、未だ１５分程歩かねばならない。
お腹が鳴り出して暫くすると、今度は強い便意に襲われた。
「こりゃ、いかん。艇庫までもつかな？」私の不安は急速に増大した。その上、お腹が少し痛い。我慢して歩いていると、歩道に張られた足元のデザインタイルが歪んで見えるほど痛くなった。

「やや！駄目だ！もたん」便意を止めようと必死になればなるほど、余計腹が痛くなる。
もう少し行けばマクドナルド・ハンバーガーがあるし、その手前には馴染みのマリンショップもある。
いざとなれば、そこでトイレを借りる事も出来るだろう。そう思うと気が楽になったせいか、先ほどまで続いた便意が遠ざかった。

「やれやれ！何故か少し楽になったな。この分なら艇庫まで行き着くかも知れないな。万が一の場合は浜辺のトイレを利用しよう」そう思いながら、マリンショップもマクドナルド・ハンバーガーも通り過ぎてしまった。
浜まであと１００メートルほどの距離まで歩いたところで、お腹が再び怪しくなった。お腹はブツブツと鳴り、便意が波状攻撃をかけて来るけれど、まだ絶対絶命という感じではない。

「よし、もう少しだ。浜に下りればトイレはそれ程遠くないし、何とかもつだろう」
問題があるとすれば、浜に下りる手前にある海岸道路の信号である。押しボタン式の信号は、冬の時期渡る人が少ないせいか、車優先で待ち時間が長いのが気になる。今の場合は、一秒でも命取りになり兼ねない。
何時また、意地悪な自然が私の精神力を試す暴挙に出ないとも限らない。私はお腹を刺激しないように、極力静かに歩き、自然が私の存在を忘れてくれる事をひたすら祈った。

重いセーリングバックがお尻に当たらないように右手で抱えると、能の役者のように摺り足で歩き、無我の境地を創ろうとした。見ると信号は青である。急げば渡れるけれど、折角ウトウト眠っている自然を醒ましては、何にもならないので、摺り足を続行することにした。案の定、渡る直前に信号が赤に変わってしまい、ボタンを押す指にも力が入らない。三叉路のため、信号はなかなか変わらず、イライラして待っていると、またもや、自然が私を呼びにやって来た。第二の波状攻撃である。

顔から血の気が引くと、目の前が真っ白になり、私は思わず唸っていた。
「ウッウッ！こんな処で負けてたまるか！」私は歯を喰いしばり、懸命に耐えた。もしもこの世に神が存在するとすれば、今この瞬間に出て来て助けて欲しいと真剣に考えた。しかし、神はもとより、人っ子一人いない。
信号が変わり私はそろりそろりと歩き始め、どうにか海岸道路を渡り切った。浜に下りる階段を一段一段、体に振動を与えないように下りたところで一息入れ、前方に見える浜のトイレを朦朧とした目で眺めた。

「あそこまで何とかもってくれ！」
必死に耐える私の体はくの字に曲り、砂にめり込んだ靴は容易には前に進まない。それでも、我慢に我慢を重ねて歩いていると、再び苦痛が和らぎ脂汗も引いてきた。
が、しかし、あとトイレまで二十メートル程になった処で、第三の波が怒涛の如く押し寄せた。苦痛に顔を歪め、砂を蹴散らして私は走った。

トイレのドアを勢い良く開け、肩に担いでいた大きなバックをドアに掛けようとしたが、掛けるフックがない。
トイレの中には、水洗のパイプが一本縦に通っているだけで、バックを掛けられるような突起物は、何処を探しても見当たらない。汚れた床にじかに置くには抵抗があるし、第一邪魔である。
切羽詰った私はドアを開けると、トイレの外へバックを放り投げた。バックの中にある財布が心配で、一瞬躊躇したのが命取りになった。ズボンを下げてしゃがみ込むと同時に、それまで固く閉じられていたお尻の筋肉が限界を超えて、生ぬるい粥状の液体がどっと溢れ出してしまった。
「南無さん！」
真っ青だった顔に血の気が戻り、私はフー！と大きく息をした。急にお腹が軽くなり、苦痛が嘘のように消えてしまった。

「あーあ！、やってしまったか」
見るとパンツの中央に味噌汁をこぼしたような見たくない跡がある。
「どうしよう！］極楽と引き換えにエライ事になってしまった。
先にも後にも、こんな恥ずかしい思いをした事は、これが初めてかというと、そうではない。とても人前では話せないもっと恥ずかしい事が、私のこれまでの人生に少なくとも二度はある。
考えてみれば、排泄作用を一日一回として、恥ずかしい事だらけの赤ん坊の時代を除き、これまで６０年間の
失敗の確率は高々 0.0136986% である。そう思うと、恥ずかしい気持ちが忽ち何処かへすっ飛んでしまった。
若い頃、場末のバーのトイレでお目に掛かった落書から、

「極楽は　いずこにありと　尋ぬれば　こらえこらえて　糞の出る時」

ついでに、下句を書き換えたエッチな迷句も、

「極楽は　いずこにありと　尋ぬれば　ここよここよと　○○を開けり」
                                                     
                                                                                                                  （完）
脱稿日：2000/03/02.015                                                                                                            

　　　　　　　　　次ページへ　　　　　目次に戻る　　　　　　トップへ　　　　My Topics へ